ジョイナス最後の戦い

Join Us Last Stand

映画「ボヘミアン・ラプソディ」の感想

みくはかわいいネコチャンアイドルなのにゃ

 私はときどきアイドルマスターシンデレラガールズ前川みくになる。「みくはかわいいネコチャンアイドルなのにゃ」と口にした瞬間、私は首輪が外れたネコチャンになる。私はもう前川みくだ。いや、みくは前川みくなのにゃ。

 ……私は前川みくではない。「これからPチャンといっしょにナイトプールいくにゃ」と呟いてみたところで、鏡に映るのはこれから歯を磨くアラサー男性である。まつ毛が触れるほど鏡に急接近したところで現実は変わらない。私はどうあがいたって前川みくにはなれない。

 しかしある程度なら、人間は自分の在り方を変えてしまうことができる。桑田真澄の息子がハーフのような外見になったように。あるいはペルシャ系インド人の両親から生まれたファルーク・バルサラが、ロックスター・フレディ・マーキュリーになったように。

ファルーク・バルサラとフレディ・マーキュリー

 ファルークはペルシャ系という自分のルーツを嫌い、やがてフレディ・マーキュリーと改名して活動するようになる。彼がヴォーカルを努めるバンドQUEENは大成功を収め、フレディはロックスターとして崇められる存在となる。

 なのにフレディは満たされない。むしろ彼は退廃の道へと向かっていく。

 映画『ボヘミアン・ラプソディ』ではフレディ・マーキュリーの破滅的な姿が描き出される。ファルーク・バルサラをやめ、フレディ・マーキュリーになったーーーなりたい自分になったはずの男が酒とセックスに依存していく。「退廃的でこそロックスター」と言う人もいるかもしれないが、この映画は擦り切れていくフレディを美化しない。

Bohemian Rhapsody』と悪魔

 ここで一言断っておきたい。それは私はこの映画をフレディの伝奇作品だとは思ってはいないということだ。映画として構成するために史実を捻じ曲げているから、という理由ではない。この作品はフレディの伝奇と言うよりは、楽曲『Bohemian Rhapsody』の映画化と言う方が相応しい。


Queen - Bohemian Rhapsody (Official Lyric Video)

 『Bohemian Rhapsody』では自由奔放(easy come, easy go)に生きる青年とそれを許さない世界の対峙が歌われる。青年は殺人を犯し、死刑に処されようとしている。「ママ」のフレーズも相まって、どこかカミュの『異邦人』を思わせる内容である。

 また『Bohemian Rhapsody』はフレディ・マーキュリー自身のことを歌った曲だと捉える人は少なくない。たしかにファルーク・バルサラという名を捨て、ロックスターとして生きるフレディは自由人そのものである。他人に一切媚びへつらうことのない姿はまるで曲中で言及されるガリレオ・ガリレイや『フィガロの結婚』のフィガロのようである。

 しかし曲の青年とフレディとでは決定的に違うところがある。フレディは間違いなく成功者。一方、青年は「just a poor boy」。フレディがスターダムに上り詰めるまでには障壁がなかったとは言わないが*1、結果として彼は大衆に愛されている。フレディが世の中に対して「Let me go(自由にさせてくれ)」と主張するのはどうもしっくりこない。

 曲を聴き進めていくと、なんと「蠅の王」ベルゼブブが登場する。青年は「ベルゼブブが僕に悪魔を取り憑かせようとしている」と訴える。殺人を犯した青年が法に裁かれる筋書きと思いきや、悪魔が介入してくるのだ。悪魔が取り憑けば、自我が失われ自分ではない何かになってしまう。もはや自由奔放には生きられない。

 思うに『Bohemian Rhapsody』とは自由と外圧の対峙を歌った曲ではなく、もっと内省的な曲ではないだろうか。自由奔放に生きたいが、誰かを悲しませてしまう。本能のままに生きれば、退廃してしまう。それが分かっていながら、自由気ままな生き方をやめられない。そんな自由は自由と言えるだろうか。もはや悪魔に取り憑かれているようなものではないだろうか。

 青年は自由奔放に生きていた。しかし人を殺したことも、その罰を受けることも、彼の本意ではない。自由に生きているはずが、いつしか悪魔に取り憑かれたように自分を失ってしまった。『Bohemian Rhapsody』とは自分が望んだ自分ではなくなる恐怖を歌った曲なのである。

Bohemian Rhapsody』から『We Are The Chamipions』

 映画「ボヘミアン・ラプソディ」は自由奔放に生きていたはずのフレディが、だんだんとセルフコントロールを失っていく物語のように私には映った。恋人のメアリーに指輪まで贈ったのに、レコード会社の人間と不倫をするフレディ。バンドメンバーを裏切るような形でソロデビューするフレディ*2。そして淫蕩のかぎりを尽くしたフレディはAIDSに感染してしまう。皮肉なことに、フレディも曲の中の青年のように死を宣告されてしまったのだ。

 この映画は『Bohemian Rhapsody』の歌詞とフレディ・マーキュリーの半生が重なるように構成されている。むしろフレディという偉大なロックスターの姿を借りて、『Bohemian Rhapsody』の世界ーーー「自由を求めていたはずが自分を見失って破滅していく男の悲劇」を映像化したのが、映画「ボヘミアン・ラプソディ」だったといえる。

 絶望の中でフレディはメアリーに諭され「悪魔」を祓い立ち直るわけだが、その過程がやけにありきたりだとか、あっさりとしすぎだとか、そういう声もある。ただ、『Bohemian Rhapsody』の歌詞の意味を噛みしめると、自分を止めることができずに苦しんでいるフレディにとってメアリーがどれほどの救いであったか想像できる。

 自分を見失っていく恐怖を見てきたからこそ、私には「悪魔」から解放されたフレディが躍動するライブエイドのシーンは実に爽快に映った。「死にたくない。いっそのこと生まれてこなければよかった」と苦悩を吐き出すように歌う『Bohemian Rhapsody』。「君には栄光の時代はまだこれからだ」と歌う『Radio Ga Ga』。「時間を無駄にするな」と叫ぶ『Hammer To Fall』。そして高らかに勝利を宣言する『We Are The Champions』。スクリーンを通してフレディと勝利を分かち合える最高のクライマックスだった。

 見てもう一週間ほど経つが、未だに思い出すだけで胸が熱くなってしまう。「みくはかわいいネコチャンアイドルなのにゃ」とか世迷言を言う前に、私はもう一度「ボヘミアン・ラプソディ」を見に行くべきではないのではないか?

*1:映画では「パキ野郎」と差別されたり、評論家に酷評される場面がある

*2:実際は他のメンバーの方が先にソロデビューしているのだが

グラスリップはなぜつまらないのか

はじめに

 「グラスリップはつまらない」と言われてしまったら、「うん、そうかもね」と私は言い返すほかにない。

 「私はそのつまらないアニメを十数回は見返しているのですが」と喧嘩腰に言い返してもいいのだが、どのような反応をされるかは想像に難くない。きっと私にとって望ましい反応は返ってこないだろう。それよりはこの作品の「つまらなさ」にしっかり向き合った方が建設的だろう。

 よってこの記事では「つまらなさ」について自分なりに解説していきたいと思う。

沖倉駆と私たち

 「グラスリップは難解だ」というのが世間一般の評価である。しかし筋書きそのものは決して複雑ではない。転校生の沖倉駆の登場で、仲良しグループに色恋絡みのトラブルが発生する。その過程で、登場人物たちは友人たちのことを実はよく分かっていなかったということを自覚し、相手を理解しようと試みる。ざっと説明するとこういうストーリーである。

 主人公の深水透子は転校生の駆と親密な関係になり、彼が「唐突な当たり前の孤独」というトラウマを抱えていることを知る。作品最大の山場である12話「花火(再び)」で描かれた幻想世界が、駆のトラウマとなっている「唐突な当たり前の孤独」の反映だということはさすがに理解できるだろう(できないと言われると困る)。「未来のかけら」の世界で深水透子は駆の立場を疑似体験し、「唐突な当たり前の孤独」を身をもって理解したのである。

 率直に言うと、この「沖倉駆を理解する」という顛末がつまらなさの原因である。

 透子と駆は相思相愛である。彼女が駆の気持ちに寄り添うことは、二人が関係を継続していくうえで自然なことだろう。しかし私たち視聴者にとってはどうだろうか?沖倉駆は私たちの肉親でも恋人でもない。アニメキャラにこういうのが適切なのかどうかは分からないが、駆は私たちにとって赤の他人にすぎない。私たちには彼の気持ちに寄り添わなければならない理由があるのだろうか?

 駆は視聴者が好意を抱くようなキャラではない。透子からは「気取っている」と言われ、実の父親さえも「ヘンな子に育ってしまった」と言う始末である。庭にテントを立てて寝泊まりする様子やイマジナリーフレンドと会話している様子を見る限り、変人という評価からは免れないだろう。

 対人関係にも問題がある。駆は透子にはご執心だが、透子以外の仲良しグループのメンバーとの交流にはやけに消極的である。色恋絡みで井美雪哉に恨まれてしまったのは不可抗力ゆえに可哀想であったが、彼もまた火に油を注ぐような対応をとってしまった。高山やなぎは彼を「ジコチューっぽい」と評するが、たしかに協調性のかけらもない。

 沖倉駆は協調性のない変人である。私なら彼と積極的に関わろうとは思わない。彼と関わらないまま一生を終えても構わない。沖倉駆なんて私にとってどうでもいい人間なのだ。そんな彼の気持ちに寄り添う必要があるだろうか?

沖倉駆を理解するということ

 物語の終盤、「未来のかけら」の正体が分からなくになり、透子に雪の幻影が見えるようになるなど謎が深まる中、深水透子は駆を理解しようと試みる。駆の事情などおそらく(私を含めた)大方の視聴者の興味の対象ではなかっただろう。しかし物語は意に介さんとばかりに沖倉駆のトラウマである「唐突な当たり前の孤独」を展開していく。

 繰り返すが沖倉駆は私にとってどうでもいい人間だ。どうでもいい人間の心の傷が理解できたところで面白くもなんともない。それ故に「つまらない」という感想を抱かれても仕方がないだろう。しかしなぜどうでもいい人間のトラウマをしることが「つまらない」のだろうか?鍵は12話「花火(再び)」にある。

 12話の幻想世界での疑似体験は一つの可能性を提示する。それは私たちも「唐突な当たり前の孤独」によって傷つきうるということだ。

 12話において無視できないのは、この回で私たちが目にしたものは駆の過去の回想ではなく、駆にとっての他者である深水透子の体験だということだ。もし12話が駆の回想として描かれていたならば、「唐突な当たり前の孤独」は私たちにとってあくまで駆のトラウマにすぎなかっただろう。しかし透子が「唐突な当たり前の孤独」を追体験し友人から忘れられるショックを味わったことで、他者の心にも爪痕を残しうるものだということが明白となる。「唐突な当たり前の孤独」はざっくりといえば、知人たちから自分の存在を忘れられてしまうということである。私たちも駆と同じような境遇に立てば、12話の透子のように傷つくだろう。傷つかない方が不自然である。つまりグラスリップが描き上げたのは、他者が我々と同じように傷つくという当たり前の事実なのだ。

 他者が我々と同じように傷つくことを私たちは忘れている。あるいはあえて見て見ぬふりをしている。なぜなら他者を傷つけるのは他でもない私たちだからだ。悪意のあるなしに関係なく、自分が誰かを傷つけているというのを自覚するのは後ろめたい。その苦しみを理解できるならなおのことである。「自分にはその特権がある」とか「自業自得だ」とか自己正当化をする切り口はいろいろあるだろう。「沖倉駆のような協調性のない変わり者になら何をしても構わない」と盲信するという手もある。ただ、後ろめたさを避けるもっとも効率がよく簡単な方法は、何も考えず、意識しないことだ。寝て起きるを何度か繰り返せば、誰かを傷つけたことなんて忘れてしまうだろう。グラスリップはそんな私たちを鈍器で殴り、私たちが目を背けているものを指摘したのだ*1。これが面白いはずがない。そういった意味で私は「グラスリップがつまらない」というのは同意せざるをえない。

*1:これで指摘するだけで終わっている無責任なアニメではないのだが、それを説明するのはまたの機会ということで

「宇垣美里アナ・コーヒーぶちまけ事件」について報じたネットニュースまとめ

 最近はTBS・宇垣美里アナの話題が熱い。宇垣美里アナがラジオで喋れば記事になり、サンジャポで喋っても記事になる。それがSNSに拡散され、ネットは宇垣美里アナで染まっていく。呼吸をするように宇垣美里アナの情報が手に入る。

 宇垣美里アナは最近「闇キャラ」として各メディアに露出しているようで、その従来の女子アナとは一味違うキャラクターが世間では賛否両論のようである。また、真偽は不明だが彼女についての悪い噂もネットニュースでは頻繁に書かれる。中でも「宇垣美里アナが上司にコーヒーを投げつけた」という話は、八尺様のエロ漫画の広告くらい目に入った。宇垣美里アナ・コーヒー投げつけ事件について書かれた記事は一体どれほどあるのだろう。気になったので過去3か月のネットニュースをグーグル検索してみた。

 調べていて気付いたことはグーグルの検索機能というのは案外いい加減だということだ。宇垣美里アナのニュースを調べたつもりなのに、記事を開いて「西武ドーム渡辺美里じゃねえか」と声を上げてしまうハプニングもあった。また、途中で配信元によって見出しが違うが記事の内容は全く一緒というパターンが何件かあることに気づいた。

 一時間半ほど調べた結果、宇垣美里アナ・コーヒーぶちまけ事件について触れた記事25件もあった。これは多いのか、少ないのか。この期間内に宇垣美里アナについて書かれたネットニュースはゆうに100件は超えていたので、割合で考えればそこまで多くはないのかもしれない。多くはないのかもしれないが、25件も似たような内容のニュースを読むのはなかなかしんどい。読んでいて「俺は何がしたいんだ」と何度も眩暈がした。

 とはいえ何の収穫もなしに終わるわけにはいかない。頭をクラクラさせながら、私は一つの答えにたどり着く。

「そうか。女子アナについて書かれたゴシップ記事は時間を無駄に消費するにはもってこいだ、ということを俺は確かめたかったのか。」

 そう思うと全てが腑に落ちた気がした。

 当該の25件の記事のリンクを載せたので、もしよければ全部読んでほしい。感情を共有しよう。

www.asagei.com

biz-journal.jp

www.asagei.com

www.asagei.com

news.nifty.com

npn.co.jp

news.nifty.com

news.nicovideo.jp

news.nifty.com

news.nifty.com

news.nifty.com

asajo.jp

news.nifty.com

news.nicovideo.jp

news.nifty.com

news.nifty.com

news.nifty.com

news.nifty.com

www.jprime.jp

taishu.jp

news.nifty.com

taishu.jp

news.nifty.com

news.nifty.com

細江純子とわたし・2018

顔写真

 スーパーマーケットの陳列された青果や畜産物の包装に生産者の顔がラベリングされていることがある。自分の顔を世間に晒すくらい生産物に自信があるのだろう、と消費者に思わせて購入意欲を刺激させるマーケティングの一環である。

 アサヒ芸能本誌連載中のコラム「ホソジュンのアソコだけの話」にも、筆者である細江純子本人の顔写真が文章と共に掲載されている。

 「アサ芸風俗」掲載版のホソジュンコラムには純子のご尊顔はないので、ホソジュンコラムのweb撤退を機にはじめてアサ芸本誌を手に取った読者は面食らってしまうだろう。細江純子は逃げも隠れもしない。下品で自らを卑下する文章の内容とは裏腹に、写真の彼女の顔は堂々としている。直視してほしい。そのためにアサ芸を手に取ってほしい。

 アサ芸は表紙からして下品だが*1、「快楽天」を手に取るよりはマシだろう。そう思いながら私は自分の生活圏からできるだけ離れたコンビニで毎週立ち読みしている。

検索

 シモネタがホソジュンコラムの主役とすれば、影の主役は自虐である。ホソジュンコラムは自身の過去や現状を嘆く内容が多く、とりわけ容姿への自虐が多い。

 そんな本人の自己評価とは裏腹に「ずんこかわいい」「細江さん抱ける」といった書き込みがネットでは時折見受けられる。しかしながらネットの書き込みほど信用できないものはない。人間という生き物は、注目を浴びるためなら平気で嘘をついたり誇張をするからだ。テキストが「ありのまま」を伝えているという保証はないのである。

 人間の100%確かな「ありのまま」はインターネットにはないのだろうか。そうではない、と私は考える。人には嘘偽りなく自己をインターネットにさらけ出す瞬間がある。それは「検索」をするときだ。求めるものを「検索」する私たちの姿は「ありのまま」である。何人たりとも私たちの「検索」を歪めることはできない。

 その「検索」だが、解析ツールを使うとどのような単語を検索してwebページにアクセスしてきたかが分かる。当ブログの場合は「細江純子」と「グラスリップ」が多い。

 そして中には「細江純子 熟女」「細江純子 エロ画像」といった検索内容も定期的に含まれている。これはどういうことだろうか。彼らが「細江純子のエロ画像を検索しろ」という脅迫を受けているのでなければ、こう考えるしかない。細江純子を性的な目線で見る人が世の中には存在している。

*1:今週号は「衝撃告白「尻毛マニア」巨乳女優の変態「性」活」という見出しが大々的に掲げられていた

「アサ芸風俗」から細江純子のコラムが消えた

  アサヒ芸能が運営する風俗情報サイト「アサ芸風俗」にて掲載されているホースコラボレーター・細江純子のコラム「ホソジュンのアソコだけの話」の更新が途絶えてしまった。

 ホソジュンコラムどころか他の競馬予想コラムの更新も途絶え、競馬関連のタグはすべて削除されていた。競馬コラムどころかAV女優・高橋しょう子のコラムすらも更新されていない。風俗レポ記事のみが更新されているようである。愛知の生んだスタアのコラムの更新が途絶えた週に、名古屋・栄の熟女ヘルスのレポが掲載されていたのにはどこか因果を感じてしまった。

 これまでもホソジュンコラムの更新がない週はあったが、それは決まって年末年始やお盆等でアサ芸本誌が発売しない週だった。まだ7月。お盆休みにはまだ早い。アサ芸本誌は毎週のようにコンビニの棚に並び、ホソジュンコラムも同様に掲載されていた。どうやらホソジュンコラム自体がなくなったわけではないようである。また、幸い過去の記事のURLは残っていた。読みたい人は当ブログの感想記事からたどれば過去のコラムをまだ読むことができる。

 ホッとした半面、残念さも否めない。

 「アサ芸風俗」への掲載はホソジュンコラムのアーカイブとして機能していた。そのアーカイブ性は、私が当ブログにホソジュンコラムの感想を書くときに役立っていた。感想記事からコラムへの直リンで内容を紹介できたし、本文の引用も手軽にできた

 また、webで掲載されたコラムはSNSでシェアすることも容易だった。全てが上手く噛み合えば、細江純子のコラムがtwitterでバズる金曜の昼が日本の日常になっていたかもしれない。

 web掲載が途絶えたことで、ホソジュンコラムの可能性は狭まってしまった。このままではゴシップ誌にひっそりと連載されている著名人コラムで止まってしまうだろう。ホソジュンコラムの素晴らしさを伝えるため、ネットの片隅で奮闘してきた自分にとしては本当に残念でならない。

 そうした一方で、「これでよかった」と思う自分もいる。

 数か月前のシモネタコラムで純子が「テレビの有名人のセクハラや不倫への執拗なバッシングに辟易している」とこぼした回があった。それについて某巨大掲示板で「この人はセクハラを容認している」と批判する書き込みを私は見た。細江純子がシモネタを言うようになった経緯を書き込んでやりたくなったが、虚しくなり胸の内に留めていおいた。

 世はまさに大炎上時代である。大半の炎上については因果応報と思わないでもない。しかし世の中には文脈を切り取り、一部分だけを取り上げて勝手に怒り狂ってしまう人がいる。このネット社会に腰を据える以上、ホソジュンコラムとて炎上の対象になってもおかしくはない。その可能性の一端を私はネットの書き込みに見てしまった。

 純子の自虐やシモの事情なら私はドン引きしながらも笑うことができる。笑い続けてきた。しかし、純子の炎上を同じように笑うことはできないだろう。ホソジュンコラムのweb掲載がなくなれば、おそらく女性競馬評論家のシモネタが本当に好きな人にしか読まれなくなる。笑えない出来事はきっと起きないだろう。

 悲しいことだが、私はホソジュンコラムのweb掲載終了を肯定的に受け入れようと思う。

細江純子と伊藤隼之介とアニメ・ウマ娘プリティーダービー

「夢の喪失」

人は才能に対して「夢」を抱く。これは決して競馬に限ったことではない。最近でいえば将棋の藤井聡太七段や野球の二刀流・大谷翔平。傑出した才能の持ち主は、人々に新たな景色を見せてくれる。

サイレンススズカ競馬ファンがそんな「夢」を抱くに値する馬だった。私は1998年の競馬を体感していないが、もしもその時代に自分がいたら、きっとサイレンススズカに「夢」を抱いていただろう。圧倒的なスピードを武器に快進撃を続け、宝塚記念でついG1馬に。そして、秋のG1戦線でさらなる飛躍を見せようというタイミングでの非業の死。

サイレンススズカのようにターフを去ってしまう可能性がどの馬にも存在する。原因を「死」に限らなければ、期待馬・素質馬の無念のリタイアは珍しいことではない。だから若い世代のファンにとっても、きっとサイレンススズカの悲劇は他人事ではない。サイレンススズカ競馬ファンにとっての「夢の喪失」のアイコンなのだ。

「夢の喪失」のアイコンであるサイレンススズカが、「死」という運命から逃げ切り、ターフに再び戻ってくるというIf。これがアニメ・ウマ娘プリティーダービーの最大の見どころである。

 正直に言うと、私はこのスズカ復活の筋書きは好きではない。私も「たられば」は好きだ。でも「死」に関しては別だ。「死」と「死」に付随する一切の要素を無化して*1、充足するのはとても虚しいこと思ってる。これはあくまでも個人的な思想、というよりも私の強迫観念と言った方が正しいだろう(又はビョーキ)。Don'tではなくCan'tなのだ。だから「それでも夢の続きを見たい」という人の気持ちは痛いほどよく分かる。

*1:ただし7話はサイレンススズカが時速60キロの走行から転倒することで死ぬ可能性も匂わされていた。「スペシャルウィークが助けなければ」というIfが成立する。

続きを読む