ジョイナスブログⅡ

アニメ、競馬など

グラスリップにおけるエッシャー「昼と夜」の意味

グラスリップには数点の「謎」がある。

その「謎」の中の一つ、「エッシャーの「昼と夜」が何を意味していたか」について考えていきたい。

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「昼と夜」はオランダの画家マウリッツ・エッシャーの描いた有名な「だまし絵」で、見方を変えると違ったものが見える。

「黒い鳥の群れ」に注目すると「昼の田園地帯」が浮かび上がり「白い鳥の群れ」に注目すると「夜の田園地帯」が見える。視点が変われば、絵に対する異なる解釈が可能となる。それが何を意味しているかというと、誰かと同じものを見ていても、その捉え方が同じとは限らないということだ。

 

「昼と夜」は2話が初出で、透子と駆が「未来のかけら」について話し合った麒麟館に展示されていた。

2話では駆と別れたあと、透子は「恋愛解禁」という言葉をめぐって井美雪哉とすれ違いを生むこととなる。透子は雪哉に恋するやなぎをバックアップするつもりでグループ内の「恋愛解禁」宣言をする。しかし透子に恋する雪哉は、透子の「恋愛解禁」宣言をこう捉えてしまったのだろう。「女の子から告らせないで!男の子から告って!」と。…勘違いした雪哉は透子に告白し、撃沈する。

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言葉と絵の違いはあるものの、同じものを共有しているにもかかわらず解釈に差異があるという点で「昼と夜」と「恋愛解禁」は相似関係だったといえる。しかしながらグラスリップの作中で「昼と夜」と相似の関係として描かれているものは「恋愛解禁」だけにとどまらない。

 

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第1話のラストでカゼミチに現れた駆は、透子に対して「君と同じものを見た」と話しかける。「同じもの」とは「未来のかけら」のことである。しかしながら「未来のかけら」に対する認識が、駆と透子の間で違ったということが6話「パンチ」で判明する。

駆にとってみれば「未来のかけら」は「不完全な自分が安定した形になるためのピース」ある。透子は「(未来を知ることで物事を)二度楽しめる」と母からの受け売りの考えを示す。

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やや変則的だが井美雪哉と高山やなぎの関係にも同じことがいえる。雪哉もやなぎもお互いが「家族」であり「異性」である。雪哉は「相手」のことを「家族」としてしか見ていないが、やなぎは「相手」を「異性」として見ている。

 

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分かりやすいのが祐と幸と「追放と王国」の関係である。祐と幸は「追放と王国」という物語を共有する。しかしその物語において、二人がフォーカスを当てた場面は一致しない。「追放と王国」の文庫本を幸に貸してもらった祐が、本の感想として真っ先に幸に話したかった場面が「バスの中で蠅が飛ぶシーン」である。その後に二人は「追放と王国」が映画化されていることを知り、映画館に見に行く。幸は「主人公の女性が『何でも…何でもないの…』と夫に話かけるラストシーン」に見入っている。しかしそのシーンを祐は爆睡していて見ていない。

 

3組のカップルは共通して「同じものを見ているのに、捉え方がバラバラ」という問題を抱えている。この問題を示すメタファーとして「昼と夜」が作中、提示されたわけである。このアニメには「飛ぶ」というテーマが関わっているので、鳥が描かれた「昼と夜」が選ばれたのだろうが、これが「ルビンの壺」だったらもっと視聴者にもピンときやすかったんではないかと思う。

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「物事の捉え方がバラバラ」なのがダメだとは必ずしもいえない。何事においても統一した見解が常に求められているわけでもないし、そこに破綻がない限りどんな考え方も許されるべきだろう。「考え方は人それぞれ」だ。ただ、どうして彼らの解釈に相違が生まれるかというと、考え方、物の見方が違うからであって、それらをどんどん掘り下げていくと彼らの思考や価値観を作り上げている「心」の問題が浮かんでくる。たとえば駆が「未来のかけら」を「不安定な自分が安定した形になるためのピース」と考える背景にあるのは駆の「自分には何かが欠けている」という強迫観念で、その原因になっているのが「唐突な当たり前の孤独」だった。こうした物事の捉え方の裏に隠された心の問題は、価値観が食い違うたびに「考え方は人それぞれ」で流されてしまうと絶対に気づかれないものだ。

7話「自転車」以降は、透子(やなぎ/祐)が駆(雪哉/幸)の心の底に接近していくという方向にストーリーが舵を切っていく。

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最後に物の見方という問題について。

7話で透子は海辺で「お似合いのカップルね」と呟くやなぎの声と共に複数の黒い鳥が透子に向かってくる「未来のかけら」を体験する。

この「未来のかけら」を透子がどう捉えたのか。その詳細をはっきりと断定できるような描写が作中には存在しないが、透子の反応を見る限りこれが彼女にとってショッキングなものだったということは間違いない。

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しかしながら「お似合いのカップルね」という言葉自体は、「昼と夜」や「恋愛解禁」がそうであったように解釈が一つに限定されないものだと自分は思う。視聴者としてストーリーを追っていれば、やなぎが透子に対して(相手には見せないように)嫉妬を抱いていたという印象を抱くだろうし、「お似合いのカップルね」はおそらく透子への妬みが込められた言葉だと自分は思う。ただ7話に至るまでの筋書きをあえて無視し、フラットな状態で「お似合いのカップルね」という言葉を耳にすれば、透子と駆に対するやなぎの冷やかし混じりの祝福として捉えることもできたはずである。ところが透子はそういう風には受け止めず、ショックを受け取り乱してしまった。何かが彼女の物の見方をネガティブな方向に限定させてしまったのである。言わずもがな、それは黒い鳥の群れだ。

 

「昼と夜」は白と黒、どちらの鳥に注目するかによって見える光景が変わる騙し絵である。言い換えれば、絵の中に描かれた鳥が私たちの物の見方を誘導するということ。

 

黒い鳥を見たときに、これを「幸福の象徴」と考えずに「不幸の象徴」「不吉の前兆」と捉えるのが一般的な感覚だと思う。「未来のかけら」が見せた「黒い鳥の群れ」は、「お似合いのカップルね」という言葉を、透子(と視聴者)がネガティブなものとして捉えるよう誘導したのではないだろうか。これがもし、「白い鳥の群れ」だったらどうだろうか?

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海辺のシーンの前に、透子は麒麟館で駆が「昼と夜」の絵に向かって落下していく「未来のかけら」を見る。これを透子は「駆が高いところから落ちる未来」と捉える。なぜ彼女がそう思ったかといえば、それは透子が「未来のかけら」を未来予知能力だと信じ込んでいたからだ。

海辺で透子が見た「未来のかけら」は「黒い鳥」という可視的な要素が彼女の物の見方を決定づけてしまった。しかし麒麟館で見た駆が落下する幻影には「昼と夜」の「白い鳥」と「黒い鳥」がはっきりと描かれていて、我々に解釈の多義性を匂わせている。だがしかし、「未来のかけら」が未来予知能力であるという思い込みが、透子の物の見方を誘導してしまったのだ。

 

たとえばの話だが、もし透子が「未来のかけら」を「人の心を映し出すもの」と考えていたら、落下する駆を見て何を思ったのだろうか?

 

と誘導してこの話はおしまい。