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ジョイナスブログⅡ

アニメ、競馬など

グラスリップとフッサール

グラスリップには5羽のニワトリが登場し、ジョナサン以外の4羽には哲学者の名前がつけられている。フッサール、ロジャー、真葛、孔子の4羽だ。ニワトリ達は1話で透子らの家にそれぞれ連れて行かれる。

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ジョナサン…透子

フッサール…やなぎ

ロジャー…雪哉

真葛…幸

孔子…祐

 

このニワトリとキャラの組み合わせにはちゃんと意味がある。

ロジャーは近代科学の先駆者ロジャー・ベーコン。自然科学研究における実験・観察の重要性を説いた人物である。雪哉は陸上選手として、自らの走りを常日頃から計測(=実験・観察)していて、彼はロジャー的な位置づけであるといえる。

真葛は江戸時代の女流文学者であり女性思想家の只野真葛。真葛の著作「独考」の添削をめぐる滝沢馬琴との交流は書物を通じた男女の交流であり、「追放と王国」「夢十夜」などの書物を通じて祐と交わろうとした幸に重なるものがある。

孔子はいうまでもなく儒教の始祖・孔子。幸の駆に対する嫌がらせに利用されながらも彼女を許した祐は、作中で最も「仁」を示したキャラクターといえなくはないか。

 

とニワトリの名前の由来になった哲学者たちと各キャラの関連をさらりと記してみたが(さらりとしすぎたかもしれないが)、どうしても簡潔に説明できないのがフッサール=高山やなぎである。これを説明しようとすると、それなりにフッサールの思想に踏み込む必要があるからだ。

前置きが長くなったが、この記事では高山やなぎというキャラが如何にフッサール的な位置づけだったかを考えていきたい。同時にフッサールの思想がグラスリップという作品においてどういう意味合いをもっていたかも説明していきたい。

 

ニワトリのフッサールの由来となったエトムント・フッサール(1859-1938)オーストリアの哲学者だ。彼の思想をなるべく分かりやすく述べながら、グラスリップにむすびつけていこうと思う。とはいっても自分は哲学に関しては全くの素人なので,、見るに堪えない理論をまくしたてたり、不可解な解釈をしているかもしれないが…そこのところは指摘してもらえるとありがたい。

 

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私たちは、自分たちが知覚できるものが、絶対にそこに存在していると思い込んでいる。同時に自分の存在も、世界の存在も自明のものとして疑わない。しかし感じられるからといって、それが本当に実在するのだろうか。ひょっとしたらあなたは実は植物人間で、あなたが日常だと信じて疑わないものは寝たきりのあなたが見ている夢かもしれない。某死神漫画のように、あなたは何者かに催眠術にかけられて認識を歪められているのかもしれない。

 自分や世界が本当に存在するか?という疑問ははっきりいって確かめようがない。だから「まず事物の実在への懐疑を保留しよう」とフッサールは説く。たとえばあなたは今パソコンを見ている(スマホでもいい)。あなたの見ているパソコンが仮に客観的には存在しないものだったとしても、あなたがパソコンを見ていること、言い換えれば「パソコンが見えた」というあなたの主観的な認識は疑いようがない。「パソコンが見えた」という事象を意識内で起きた現象と捉える。私たちは意識内でおきた現象を現実の出来事として無批判に受け入れ、その実在性を確信する。どうしてこれら現象の実在性が確信されるに至ったかを解明しようというのがフッサールの唱えるところの現象学である。

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以上を踏まえ、現象学的に高山やなぎというキャラクターについて考えていきたい。 

まずこの作品において、やなぎは何を意識し、その実在を確信したのだろうか。

それは「井美雪哉が深水透子に恋している」ということである。

「雪哉が透子に恋していること」は、まやかしでもやなぎの思い込みでもなく客観的な事実として物語上描かれている。しかし私が問いたいのはやなぎの意識下の問題であり、純粋な意識を解析したいわけだから「客観的な事実であるかどうかは保留する」というのが現象学の流儀である。やなぎはどうやって「雪哉が透子に恋していること」の実在性を確信したのだろうか。平たく言い換えれば「なぜやなぎは雪哉が透子に恋していると思ったのか」ということだ。

やなぎは「言葉なんかなくても、アイツ(雪哉)が何考えているかすぐに分かる」(13話)。 早い話がやなぎは雪哉の行動や表情、コトバの行間を読み取ることで、彼の心の内を察している。雪哉から読み取り知覚したモノを、やなぎは意識下で何らかの形で解析し「雪哉が透子に恋している」という認識に至ったのだ。

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フッサールノエシスノエマという概念で、私たちが対象にどういう意味付けをするかというメカニズムを説明した。ノエシスとは主観的な意識作用のこと。やなぎの例をあげると、やなぎの意識下に雪哉の言動(から受けた印象)が現象として現れたとき、それは何の意味づけもされていない。これに「雪哉は透子に恋をしている」という意味を与える。こうしたやなぎの主観に基づく意味付けがノエシスで、意味付けされた内容(「雪哉は透子に恋している」)がノエマだ。

この認識に到達するには当然「恋」という概念を理解しておく必要がある。「恋」を知らなければ当然「恋」を意識することができないし、対象を「恋」と結びつけることはできない。その点において、やなぎには資格があると言える。彼女は雪哉に恋をしているのだから。

やなぎは雪哉に恋することを通じて、「恋」を認識している。だから雪哉の透子に対する振る舞いや態度に、雪哉に恋する自分の姿を重ね合わせた。応用的にやなぎは雪哉の透子に対する恋心の実在性を確信したのである

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これと同じことが8話で起きている。やなぎは病院で幸と話し合い、「透子ちゃんとダビデは特別な関係かもしれない」と口にする幸の哀しげな表情から、幸の透子に対する恋愛感情を認識したのだ。

しかしながらこの場面は、やなぎの限界を示唆している。幸が哀しげな表情を見せなければ、やなぎは幸の透子に対する恋心を認識できなかったわけだ。幸と同様に、透子が抱えていた問題(未来のかけら)も、7話の海辺で透子が取り乱すまで分からなかった。更にいってしまえば、雪哉が黙って一人で合宿に行ってしまったことも(雪哉の合宿に行こうという意思に)気づくことができなかった。

雪哉と幸の恋心、透子の「未来のかけら」は、やなぎの意識外で発生した客観的事実であり、雪哉(幸・透子)の意識下で起きた現象である。それ故に本来ならやなぎには認識できるはずがないのだ。しかし、彼らの仕草や言動というサインを通じてやなぎはその存在を自覚できた。言い換えれば、相手が何らかのサインを出してくれない限り、他人の気持ちは分からないということ。もちろんサインを受け止めたところで、その解釈が客観的に正しいとは限らないが。これは現象学が理論的に陥る難問で、つまる話が現象学は「主観的な意識作用(ノエシス)」から出発する故に、「他者」や「客観性」を主観的意識の外部からは認識できない。主観の外には手が届かないのだ。

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故にフッサールはグラスリップの世界観において「主観的に物事を見る立場」のメタファーであり、ニワトリのフッサールを託された高山やなぎは『「主観的に物事を見る」ことの限界に行き当たるキャラクター』という役割を担っていた。つまりはやなぎはフッサール的・現象学的なキャラクターではなく、フッサール的・現象学的な壁に直面するキャラクターといえる。

「言葉なんかなくても、アイツ(雪哉)が何考えているかすぐに分かる」と彼女は言うが、主観でしか物事を見れない以上、他者という主観的意識の外部に位置する存在を完全に理解することはできないのだ。フッサール的な壁にぶち当たったやなぎは「自分は雪哉をちゃんと理解できているか」という疑念と向き合うことになる。これを如何にやなぎが克服するかが8話以降の流れである。

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やなぎは8話以降、いなくなった「5時半の君」の代わりに彼のランニングコースを彼のルーティンに合わせて走るようになった。雪哉を模倣したのだ。

雪哉の真似をしたところでやなぎの主観が雪哉の主観になるわけではないが、雪哉と同じ条件に立つことで、両者の主観は同じものを知覚することになる。同じ時間に同じランニングコースを走ることで両者は坂道の厳しさや、受ける風の心地よさ、風景などを共有する。もちろん同じものを見たり感じたとしても、その受け止め方が同じとは限らない。しかしそれで彼らが共有できた対象の本質が変わるわけではない。赤いものを見れば(色盲の人でない限り)100人中100人が「赤い」と答えるように、厳しい坂は誰にとっても厳しいし、心地よい風は誰にとっても心地いいはずだ。それ故、やなぎは走ることを通じて雪哉と同じ感覚を味わえる。控えめに言えば同じ感覚を味わえる可能性がある。やなぎの起こしたアクションは、そういった可能性への試みだったのだ。

 

これ以前にも、やなぎは雪哉と似た条件に立っていた。雪哉とやなぎは「恋をしている」という状況下におかれていたし、4話で足を挫いたことでやなぎは膝のリハビリを続ける雪哉と同じ境遇にしばし近づいた。「同じ時間に同じコースを走る」ことはこれらより強烈な条件の画一化である。

 

合宿から帰ってきた雪哉は、ランニングから帰ってきたやなぎに話かける。

「ラストの上り坂、全然大したことないのにすっげーキツイよな」

やなぎは涙する。彼女の試みは成功したのだ。

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他者の気持ちを理解するために、同じ条件にたって同じ体験をする。やなぎのランニングは透子が未来のかけらの世界で駆と同じように「唐突な当たり前の孤独」を体験したことにも通じ、祐と同じように自分の足で山に登った幸にも通じる。

 

以上、フッサールの思想と高山やなぎというキャラを照らし合わせながら、やなぎが陥った問題とその克服を検証してみた。ただ、「主観的な意識作用(ノエシス)」から出発する故に、「他者」や「客観性」を主観的意識の外部からは認識できないという現象学の難問はやなぎのみに当てはまるわけではない。「未来のかけら」を未来予知と誤解した透子と駆にも同じことがいえ、また作中で度々提示されるエッシャーの「昼と夜」にも通じるんだということを今後書いていけたらいいなと思う。

あと自分のフッサールについての記述をあまり鵜呑みにせず、詳しく知りたい人は本やインターネットで調べていただけるとありがたい。この記事がフッサール入門になれば幸いである。(なったらすごい)

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