ジョイナス最後の戦い

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石動乃絵の「孤立」と「帰還」

石動乃絵の「宗教」

 仲上眞一郎と石動乃絵が初めて出会ったとき、乃絵は赤い木の実を取ろうと木に登っていた。赤い実は"天空の食事"で、これから気高く"飛ぶ"ものたちが口にするものだ。乃絵は"天空の食事"をニワトリの雷轟丸に与え、彼の涙をもらうという。乃絵は祖母の死を契機に泣けなくなった。再び泣けるようになるためには、気高く"飛ぶ"ものの涙が必要なのだ。

 ニワトリの涙を手に入れようとする乃絵。彼女のやろうとしていることは非科学的で常軌を逸しているように見える。しかしそこには原因と彼女なりの目的が存在する。そして、非科学的だがある原因の解決を目的とするものという点で乃絵の行動原則に近いものを我々は知っている。宗教だ。

 

 宗教には目的が含まれている。そして目的の実現の為に教義が存在する。"涙を集める"ことも"天空の食事"を雷轟丸に与えようとするのも、乃絵が"泣く"という目的の為に定めたドグマだ。乃絵は自ら定めた教えを忠実に守っている。日曜の朝に教会を訪れるクリスチャン、聖地を巡礼するムスリム。乃絵のやっていることはこれらに近いものだ。そしてクリスチャンがキリスト教をベースとした世界観を持ち、ムスリムイスラム教に基づく世界観を内在していると同様に、乃絵も彼女の宗教に基づく世界観の中に生きているのだ。

宗教的な孤立 

 しかしながらキリスト教イスラム教と違って、乃絵の宗教は孤独な宗教だ。キリスト教徒にもイスラム教徒にも、彼らと同じ世界観を共有する仲間がたくさんいる。ところが乃絵の宗教を信奉するのは乃絵だけ。誰とも共有されていない乃絵の宗教的な世界観は周囲から隔絶された孤島のようなもの。没入していけばいくほど、周囲との断絶は深まっていく。

 この"孤立"は乃絵にとって必ずしも悪いことではない。乃絵は作中で湯浅比呂美をはじめとする他者から誤解されている。そこには彼女に対する侮蔑があり、普通の人間ならば周囲からのこうした扱いに耐えられないだろう。しかし乃絵は気にするどころかこうした噂を否定しようとすらしない。乃絵への噂や侮蔑的な視線は、乃絵の世界の外での出来事だ。彼らは違う価値観やルールの下で生きる自分とは違う存在で、乃絵とは分かり合えなくて当然なのだ。

 象徴的なのは2話での乃絵と比呂美の対比だ。じべたがいる鶏小屋を雷轟丸の墓にした乃絵。それに対してちゃんとした形で墓を作り直した比呂美。乃絵から見れば、雷轟丸の墓を作り直した比呂美は違う価値観やルールで構成された世界を生きる存在なのだ。だから自分と友達になりたいという比呂美の申し出にきな臭さを乃絵は感じる。墓を作り直す比呂美が乃絵のことが好きなはずがないのだ。しかし比呂美が乃絵のことを好きじゃなくても、それは二人が違う世界を生きているから"仕方がない"ことなのだ。"仕方がない"という諦念が、他者から乃絵を守る。

他者への関心

 こうした乃絵の"孤立"の構造を成り立たせるにはどうしても必要なものがある。それは他者への無関心だ。「別の世界の存在」というレッテルを他者に貼ることで、乃絵は他者を自分の世界の外に追いやってきた。他者への関心はそのレッテルを剥がすことと同義である。

 しかし乃絵は他者への関心を徹底して捨てきっているとはいえない。それは「気高く"飛ぶ"もの」という他者の存在を彼女は希求していたことから明らかで、その役目をニワトリに求めていた頃ならまだしも、眞一郎に雷轟丸の意思を継がせた瞬間には、他者への関心は否定できないほど明白になっている。

"比呂美という存在"の変質

 眞一郎に対する関心は、乃絵の孤立的な世界を揺るがしていくこととなる。眞一郎を悩ませている原因が比呂美だと気付くと、7話では2話とは打って変わって乃絵は比呂美に怒りを露わにし取っ組み合いのケンカをしている。眞一郎に対して無関心でいられたら、乃絵は比呂美に怒りを感じることもなかっただろう。「気高く"飛ぶ"もの」である眞一郎を経由して、乃絵の中で比呂美という他者のもつ意味合いが変わってしまった。もはや比呂美は別の世界を生きる存在ではなく、眞一郎を飛べなくする=自分の目的を阻害する存在。無関心ではいられない。

関心と欲望、孤立の崩壊

 また、眞一郎と比呂美が乃絵に何も教えてくれないことも7話の諍いの原因である。眞一郎が悩んでいる原因が湯浅比呂美にあるということに気付いても、乃絵にはその問題の核心にあるものが分からない。乃絵はそれを知りたいが、眞一郎は教えてくれない。彼は「混乱するから一人にしてほしい」とまで言う。

 乃絵からしてみれば眞一郎の行動は彼女に対する拒絶であり疎外で、傷つける行為である。しかし乃絵は2話で比呂美に対してそうしたように"仕方がない"で済ますことができない。他者に「別の世界の存在」というレッテルを貼り付ける乃絵の孤立システムは、「眞一郎を理解したい」という彼女の欲望に逆行するものだ。両者の折り合いをつけることは不可能で、乃絵はシステムか欲望のいずれかを選ばなければならない。そして欲望が勝ったら、孤立のシステムは機能不全となる。そうなれば乃絵は眞一郎の言動に傷つき、悲しむことを避けられない。

本当に大切な人を想うと涙は流れる

 ここで、乃絵の"宗教"における"原因"と"目的"について改めてちゃんと整理しておきたい。

 乃絵は祖母の死を契機に泣けなくなった。彼女の祖母が乃絵の涙を持っていったのだ。本当に大切な人の涙だけ、もらっていくことができるという。これが"原因"にあたる。

 泣けなくなった乃絵だが、いつからか彼女は"泣きたい"と思うようになった。涙を取り戻す為に彼女が大切だと思える"気高く飛べる存在"の涙をもらいたい。これが"目的"だ。

 これではいくらか寓意的すぎて受け止めづらい。分かりやすく解釈する必要がある。

 乃絵の祖母が乃絵の涙をもらっていったことで乃絵は泣けなくなった。眞一郎は当初これを乃絵の自己暗示の結果だと考える。しかし最終回では「本当に大切な人のことを想うと涙は勝手に流れる」という答えに行き当たる。これを逆説的にいえば「本当に大切な人がいないと涙は流れない」ということ。

 乃絵は7話で眞一郎から告白を受ける。乃絵は眞一郎のことが好きだ。好きな相手に「好き」と言われて涙が出るほど嬉しいはずなのに、乃絵は一切泣くことができない。これは眞一郎は乃絵にとって「本当に大切な人」ではないということを意味するのだろうか?最終回のエンドロールの後で、乃絵は眞一郎を想って涙を流す。結論をいえば眞一郎は乃絵の「本当に大切な人」だった。しかし7話の時点では、乃絵にそう認識させないよう何らかの力が作用していたと考えるべきだろう。

石動乃絵が泣けない理由

 乃絵に眞一郎を「本当に大切な人」と思わせない力の正体は「本当に大切な人を作らない」という乃絵自身の欲望である。そしてこれは乃絵から涙を奪った根本的な原因であり、乃絵の内面に孤立的な世界を築かせた要因でもある。乃絵にとって祖母は「本当に大切な人」だった。しかし彼女の死によって、乃絵は深い悲しみや絶望を味わうこととなる。その苦痛から解放される手っ取り早い方法は「本当に大切な人」という存在を世界から排除することだ。そしてその実現手段として導入されたのが乃絵の"宗教"であり、"宗教"を通じて他者と自分を意図的に断絶することで祖母のように自分を悲しませる存在を彼女の世界から消し去ったのである。

 こうして乃絵が作り出した世界には悲しみも苦しみも存在しない。それらを創り出す他者が存在しないからだ。しかしそれは、他者がもたらす喜びも存在しないことを意味する。それ故に眞一郎からの告白を受けても乃絵は喜ぶことができない。正確に言えば「これは喜び」だという実感があっても、身体的に上手く受容できない。乃絵の孤立的な世界が、悲しみや苦しみと同様に喜びの体感まで阻害している。だから彼女は"泣く"ことができない。乃絵が"泣く"ためには自らが作り上げた孤立的な世界を捨て、他者のもたらす悲しみと苦しみ、そして喜びを感じられる世界へ戻っていく必要があるのだ。

 ここで思い出したいのが2話の冒頭で乃絵が眞一郎に「涙って何?」と尋ねるシーンだ。眞一郎は「悲しいときに」と言いかけるが、乃絵は「そうじゃなくて、涙って何?」と改めて質問する。「眼球の洗浄と保湿のために涙腺から分泌される…」と答える。乃絵はそんな眞一郎を「見込みあるわ」と評する。乃絵は「悲しいときに流れる」と言いかけた眞一郎を「そうじゃなくて」と制し、自然科学的な解釈を評価した。この一幕に乃絵の涙に対する認識が象徴されている。悲しみや苦しみの受容を否定している乃絵にとって、涙とはすでに悲しいときに流れるものではないのだ。それ故に、乃絵は涙に対してあくまでも自然科学的な受け止め方しかできない。

相反する二つの欲望

 石動乃絵の"宗教"は「本当に大切な人を作らない」という乃絵の欲望に則するものである。しかしながら乃絵の宗教には「泣けなくなった乃絵のために、彼女自身が大切だと思える気高く飛べる存在の涙を手に入れる」という目的がある。この目的は「本当に大切な人」の存在を前提(目的といっても過言はない)にする。そして「泣く」という最終目的は、彼女が拒絶してしまった悲しみや喜びに付随する現象だ。悲しみも喜びも共に他者がもたらすものである。

 つまり乃絵は他者と自己を分断する道具として"宗教"を使う一方で、他者と自己を結び付けるドグマを"宗教"に組み込んでいる。他者を拒絶しながら他者を希求するという相反する二つの欲望が彼女の"宗教"には存在するのだ。こうした矛盾は我々にとって特別なことではない。程度の差はあれど我々はある時は他者を疎ましく思うし、またあるときは愛おしく感じる。その二つの感覚を知らない人はいないだろうし、当然それらが心理面において並存不可なものではないということも直観的に理解している。

 「他者との断絶」と「他者への希求」という欲望の両立は可能だ。しかし「大切な人を作らない」という目的と「大切な人がほしい」という目的は性質上両方とも達成するということは不可能だ。

なぜ雷轟丸が選ばれたのか? 

 「この人は自分の大切な人だ」という感覚は意識的なものではなく、不可避的に向こうからやってくるものだ。「大切な人」とは人と人と関わりの中で自然に現れてしまうものだ。「大切な人を作らない」という目的を達成するためには、誰かを「大切な人」と認識する可能性を意識的に排除していく必要がある。その為に乃絵は"宗教的に孤立"して自分と他者との間に壁を作った。

 その一方で「大切な人=気高く"飛べる"存在(の涙)がほしい」という願望ないしは「泣きたい」という欲望を乃絵は抑え込むことができない。相反する二つの欲望の綱引きに決着をつけるべく、乃絵が白羽の矢を立てたのがニワトリの雷轟丸だ。「気高く"飛べる"存在」として人ではないニワトリの存在を求めることで、乃絵は他者との断絶を継続したのだ。他者との断絶は、他者がもたらす悲しみ、苦しみ、喜びとの決別である。しかしこれらの感情を拒絶したら涙を流せない。つまる話が雷轟丸を選んだことで乃絵は「涙を流す」という目的を達成不可能なものにしてしまったのだ。もちろんそれは「大切な人を作らない」ことの継続も意味する。

 しかし乃絵の選択は幸か不幸にも雷轟丸の死によって破断することとなる。そして、乃絵の前に仲上眞一郎という男が現れる。この男はニワトリではなく、「人」だ。

仲上眞一郎は器が大きい

 乃絵をフッて比呂美を選んだせいか、ネットではクズと扱いされていることも多い仲上眞一郎。しかし私から言わせると、眞一郎ほど器の大きい人間はなかなかいない。

 眞一郎は初対面の乃絵に「あなたに不幸が訪れますように」と呪われる。乃絵は初対面の人間を呪うような人間に対して、彼は関わりをもとうとしていく。

 乃絵と関わるには彼女の強烈な個性を受け入れるだけの器も必要だ。赤い実で餌付けしようとする乃絵に振り回される眞一郎。ただ振り回されるだけじゃなく「じゃあ自分が食べてみろよ」と乃絵に切り返すだけの余裕が彼にはある。

 そして乃絵のリクエストに応える優しさも眞一郎には備わっている。乃絵が木から降りられないならば下で受け止める。乃絵が足を痛めたら彼女をおんぶする。"目の洗浄"にもなんだかんだ付き合った。眞一郎は基本的には乃絵の要求を受け入れている。こんな眞一郎が器の小さい人間であるはずがないのだ。

乃絵に関わろうとする他者

 重要なのは、遠巻きに乃絵を侮蔑している連中とは違い眞一郎は乃絵との関わり合いを求めた、ということだ。乃絵が他者を自分の世界の外に追いやっているように、他者も乃絵を自分の世界から隔絶している。この構図をぶち破り、乃絵の世界に現れたのが眞一郎だ。

 一度は乃絵も呪うことで眞一郎を拒絶する。ところが拒絶したはずの相手が、「呪いを取り消せ」と再び自分の前に現れた。乃絵にとっては初めての経験ではないだろうか。

 8話で乃絵は比呂美に「あなたのことを見直した」と言う。自分とちゃんとケンカをしたのは比呂美が初めてだと乃絵は語る。乃絵は自分と関わろうとした人間を、好意的に評する。それがケンカという形だとしても。ケンカした相手すら好意的に受け止めるなら、眞一郎に対する評価はどれほどのものになるだろう。

 乃絵の拒絶を否定し、彼女を関わろうとする眞一郎。乃絵の孤立した世界に新たな可能性をもたらす存在である。

結末を迎えられない物語と物語を紡ぐ仲上眞一郎

 乃絵の「大切な人を作らない」という目的にとって仲上眞一郎は非常に厄介な存在である。それは彼が絵本作家(のたまご)だからだ。

 原因と目的があり、結末で結ばれるものは"物語"と呼べる。乃絵の物語はさしずめ「乃絵が再び涙を流す物語」である。そして乃絵の物語に内包されるように「雷轟丸が飛翔する物語」も存在する。しかしながら前述したとおり「乃絵が涙を流す」という目的は達成できない。そのうえ物語の主人公雷轟丸は非業の死を遂げてしまった。二つの物語は結末に辿り着けず途方に暮れている状態だ。

 絵本作家は物語を紡ぐことができる存在だ。眞一郎は「雷轟丸とじべたの物語」という形で雷轟丸の物語を再構築する。死んだ雷轟丸は新しい物語の中で生き返った。このように物語を紡ぐという行為は不可能を可能にするような魔力がある。「乃絵が再び涙を流す物語」も生き返った雷轟丸のように再び結末へ向かって動き出せるかもしれない。

 しかしながら物事は常に都合よくは進まない。眞一郎は絵本作家のたまごであり、物語を紡ぐ能力を十分に発揮できない。眞一郎には乃絵とは別に「比呂美の涙を拭いたい」という目的があるが、彼の中の躊躇いがその達成を許してくれない。乃絵と出会った頃の眞一郎は、自分の物語さえ紡げない不十分な存在なのだ。眞一郎はまず、自分の物語を完結できる自分になる必要がある。

眞一郎を躊躇わせる「他者の評価」

 乃絵と同様に眞一郎もまた内面に問題を抱えている。彼は自分の家に居候する湯浅比呂美のことが好きだ。比呂美は比呂美で問題を抱えていて、仲上家で縮こまりながら生活している。そんな比呂美の「涙を拭いたい」と眞一郎は思っているが、なかなか素直になれない。また彼は絵本作家になりたいが、自分の作家としての限界を知るのが怖くて絵本の制作は滞っている。そして麦端祭りの踊りの花形に抜擢されているが、同じく花形だった父親と比べられるのが怖くて踊りたくない。

 比呂美、絵本、踊り。三者に対する眞一郎の躊躇には共通点がある。それは他者からの評価だ。

 絵本は読者に読まれるものだ。当然眞一郎の絵本も、発表されたら読者に読まれることを避けられない。そして彼らは本を評価する。自分が渾身の力を振り絞って描き上げた作品でも、よい評価を得られないかもしれない。それ故眞一郎は躊躇する。現に眞一郎は出版社に自分の作品を送ったが、1話で不採用になってしまった。

 踊りに対しても同じことがいえる。比較というのはまさに評価である。もし父親より下手だと思われたら、その評価は一生覆すことができない。そして眞一郎は父親に対して引け目を感じながら生きていかなければならない。それ故に眞一郎は「元から乗り気ではない」と、低評価を受けたときの言い訳を祭りの前からしている。

 眞一郎が比呂美のことを好きでも、比呂美が眞一郎をどう思っているかは彼には分からない。自分の想いを比呂美に伝えたら、眞一郎は比呂美の自分に対する気持ちに直面せざるをえない。つまり比呂美の自分に対する評価を知ることとなる。

二人の逃避者

 眞一郎は評価されることを恐れている。正確に言えば、彼は他者から悪い評価を受けることを恐れている。他者からの評価によって傷つきたくないのだ。それ故に眞一郎は他者の評価から逃げているといえる。

 これは乃絵にも同じことがいえる。他者との断絶は、すなわち他者からの逃避といえる。乃絵は孤立的な世界観を築くことで、他者がもたらす悲しみや苦しみを回避し、他者に傷つけられることなく過ごしている。

 眞一郎と乃絵。二人とも根底に他者への恐れを抱えている。その形はそれぞれ違うが、二人とも他者からの"逃避"を続けている。彼らは似た者同士なのだ。

 問題は眞一郎と乃絵が"逃避"を物語の中でどう乗り越えていったかということだ。

 結論から言えば、眞一郎は乃絵からの期待を自らの欲望に書き換えていくことで躊躇を克服する。乃絵は眞一郎の絵本を読みたいといい、踊りも一番近くで見たいという。乃絵は眞一郎を評価しようとはしていない。ただ単純に彼を求めている。そんな彼女の期待に応えたいという眞一郎の欲望が、彼の躊躇を上回ったのだ。

欲望を焚き付ける赤い炎

 12話における"飛翔"に至る過程に、眞一郎の欲望を焚き付けるイベントがある。8話の石動純と比呂美のバイク事故だ。

 雪道で転倒した純と比呂美。奇跡的に二人は無傷だったが、純のバイクは炎上する。事故現場にタクシーに乗ってやってきた眞一郎と乃絵。燃え上がるバイクの炎に焚き付けられるように、眞一郎は比呂美を抱きしめる。

 眞一郎は比呂美を諦めようとしていた。彼女が純のことが好きだと聞いてしまったからだ。比呂美と純が付き合うことが彼女のためと想い、純との交換条件に乗る。しかしこの一件で彼の比呂美の諦めようという決意は根本的に揺らぐこととなる。

 炎がキャラクターの欲望を焚き付けるような描写は他にも存在する。12話では仕事場の石油ストーブの炎に誘われるように、純が乃絵に対して近親愛を吐露する。そして乃絵も、祭りの中で踊る眞一郎を照らす炎に焚き付けられるように、"飛ぶ"。

"飛ぶ"って何ですか?

 "飛ぶ"という概念はtrue tearsの中で一番重要なものだろう。ここで触れておく必要がある。私的な解釈を述べたい。

 "飛ぶ"というのは「躊躇いを克服し、自分の欲望に従う」という意味だ。人の評価を気にして踊りと絵本を躊躇っていた眞一郎が、それを乗り越えて踊りの花形を務め上げ、絵本を描き上げた。それを実現させたのは「乃絵に見せたい」という欲望である。

 その一方で、成り行きに身を任せた選択、または"逃避"は"飛ぶ"に値しない。劇中の例で言えば眞一郎と純の「交換条件」がそれに該当する。眞一郎の欲望は比呂美に、純の欲望は乃絵に向かっている。それを表に出すのが怖いから、二人は「交換条件」に乗ってしまった。

 また成り行きに身を任せた選択でも、"逃避"でもなければその選択は"飛ぶ"ことと同義になる。湯浅比呂美は自分の気持ちを整理したいと仲上家を離れた。彼女の願いは眞一郎と結ばれることで、眞一郎から離れることは自分の欲望に逆らう行為である。しかし比呂美はそれが自分にとって必要なことだと信じ、そうすることに決めたのだ。これは"飛ぶ"と同義になる。

 しかしながら石動乃絵がいうところの"飛ぶ"にはもう一つの意味がある。悲しいことや苦しいことから"飛んで逃げる"ということ。つまり"逃避"だ。乃絵の中にはベクトルの違う二つの"飛ぶ"の概念が存在するのだ。

"飛ぶ"と”自殺”の二面性

 眞一郎は麦端踊りの花形を務め上げ、"飛んだ"。その姿に触発された乃絵は木の上から飛び降りる。

 乃絵の"飛ぶ"には二つの意味がある。一つは眞一郎がそうしたように「躊躇いを克服し、自分の欲望に従う」こと。もう一つは「悲しいことや苦しいことから逃げる」こと。飛び降りるという行為は、後者を連想させる。自殺という"究極の逃避"を。

 しかしながら自殺という行為も”飛ぶ”と同様に二面性を孕んでいる。死ねば人間は意識から解放される。すなわち悲しむことも苦しむこともない。その一方で死というものは苦痛を伴うものである。つまり自殺とは「苦痛からの解放」と「苦痛の受容」という相反する要素で構成されている行為なのだ。

 乃絵は「苦痛からの解放」のために自殺に及んだが、それは同時に「苦痛の受容」を選択することでもあったのだ。結果的に乃絵は雪がクッションになり、骨折程度で済んだ。乃絵は苦痛から解放されなかった。彼女が苦痛を受け入れた事実だけが残った。

帰還

 乃絵は自殺をすることで、苦痛を受容する。自殺を選択したのは乃絵自身だが、彼女を自殺に追いやったのは(法的にも道義的にも責任はないが)仲上眞一郎だ。紛れもなく他者の存在が彼女を傷つけた。

 他者がもたらす苦痛を受容したが、死ねなかった乃絵。結果として彼女は自殺の失敗という見ているような少し身の毛がよだつような形で、孤立的な世界から他者によって悲しまされ、苦しめられる世界に帰還したのだ。

 乃絵の目的は涙を取り戻すことだ。そのためには自分の創り上げた孤立的な世界を捨て、他者のもたらす悲しみと苦しみ、そして喜びを感じられる世界へ戻っていく必要がある。それが乃絵にとっての"逃避"ではない"飛ぶ"だったのだ。しかしながらその目的は死という"究極の逃避"と隣り合わせの場所から成し遂げられた。true tearsはとてつもなく壮絶な物語なのだ。

最後に

 true tearsの放映から8年が経った。グラスリップに対しては何度も自分の考察をブログに書いたが、true tearsに対しては自分はこれまで触れることがなかった。true tearsに対して「全部ちゃんとしていない」気がしていた。8年分の収まりがつかない気持ちを曝け出したら、想像以上の超大作になってしまった。

 8年も経っているから、その間にいろんな人がtrue tearsについて言及しただろう。自分もそのうちのいくつかを見た。いくつかは見ていない。ところどころで他人の主張と重なってしまうところがあり、今更感がある内容に感じたら申し訳ない。