ジョイナス最後の戦い

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GJ部/GJ部@ 雑感

空間と時間の有限性

 「GJ部」ではGJ部*1は空間と時間の有限性の関連が描かれている。

 「GJ部」では部室で文化祭の準備する様子は描かれても肝心の文化祭の様子は描かれないように、部室の外で部活動に及ぶシーンは意図的にカットされている。またプールに行くという話の流れだったのに、部室で水着になって戯れるだけで彼らは満足してしまう。その一方でキョロと真央のデート(?)や、キョロの天使邸訪問はこれは部活動の枠外だと言わんばかりに描写されている。家では「真央でいいよ」とキョロに言う真央。ここでは自分が「部長」ではなく「真央」だと示すことで、これが部活の枠外だということを示唆する。

 

 直接の描写がないだけで、時系列の上では部室の外でも彼らは部活動に及んでいる。しかしこうした描写の徹底した排除から我々は「部室という空間の上に成り立っているのがGJ部である」というある種の強迫観念を見出すことができる。実際にそうであるかは大した問題ではなく、こうした偏執狂じみた観念が存在しているということに意味がある。

 「あらゆる物事には始まりがあり、終わりがくるものなのだ」という真央の言葉通り、GJ部員には卒業という名の時間制限が存在する。卒業したら彼らはGJ部員ではなくなってしまう。しかしこれも観念であり真理ではない。「卒業しても私はGJ部だ!」と叫べばあっさり覆せるようなことだ。ただ空間の制限性と同様に、時間の制約に関する強迫観念が作中に存在することは紛れもない事実である。

 時間と空間の支配から彼らを解放するのが「GJ部」最終回でキョロが言い放った「何時如何なる場所でも我々は兄弟の絆で結ばれている」という言葉である。GJ部は時間と空間に制約された存在ではなく「何時如何なる場所でも」結ばれているとキョロは卒業する真央たちに言う。しかし「GJ部@」AパートにあらわれたNYのGJ部部室、"ロスタイム"という概念は彼らが依然空間と時間の制限に囚われているということを意味する。

 これらの強迫観念の宿主は他でもない天使真央で、GJ部は制限された空間と時間の内に実存するものだという認識に真央は支配されている。そうではなくて、彼らの絆こそがGJ部であると認識しなおすことが「GJ部@」のゴールであり、夜の部室を飛び出した部員たちがプール*2に浮かんで輪になるラストシーンが空間と時間の制限を超越した彼女らの絆を象徴するように視聴者の目に焼き付けられる。

キョロと真央の関係の変化 

 時間と空間に関する強迫観念は、本来なら無印最終話の時点で解決しているべき問題である。何よりGJ部という永遠の絆は真央自身が望んでいるものである。だからこそキョロを無視しようとする彼女の姿は目を背けたくなるほどに痛ましい。にもかかわらず真央は絆を否定しようとする。彼女にそうさせるものに我々は目を向ける必要がある。

  6話でお子様ランチを食べたいという真央に付き合わされ、キョロは彼女と二人きりで仙川駅近くのファミレスに赴く。お子様ランチを食べる為に真央は小学生になりきってキョロの妹を演じる。恵や紫音にそんな姿を見せるのは恥ずかしいが、キョロ相手だと恥ずかしくないらしい。

 そんな真央だったが最終回では卒業生で彼女だけがキョロと二人きりにならなかった。自分を避けようとする真央の態度が気になったキョロに恵は「恥ずかしかったからですよ。don'tではなくcan'tです」と教える。

 「GJ部@」で真央がキョロを無視するくだりは、「卒業したらGJ部に関わってはいけない」という真央のGJ部観に起因するだけではなく、上記のキョロと真央の関係の延長線上にあるものといえる。卒業、ロスタイムを経て真央とキョロは、これまで通りの部活の先輩と後輩ではなく新しい関係を築く必要がある。真央はキョロを無視することで、もはや「先輩と後輩」ではいられない二人の関係性からの逃避を求める。時間と空間に関する強迫観念は、彼女の逃避願望を正当化する形で肥大化していくこととなる。

 しかしながら真央は「don'tではなくcan't」。二人の関係を進展させたくないのではなく、そうできないのだ。キョロと新しい関係を結びたいのが彼女の本心だというのは言うまでもない。

 キョロと真央の関係はキョロの"成長"に伴い作中で変化していく。

 当初は真央たちにからかわれるだけのキョロは、回を重ねるにつれて逆に真央たちをからかうようになってくる。真央の言葉を借りれば「調子に乗ってきた」キョロだが、彼らの関係は「先輩と後輩」の上下関係から対等な関係へと移行していく。

 また彼は部員たちの"要望"に応える形で新しい自分を獲得していく。その典型というべきものが"俺マン"。真央はキョロに「男らしさ」を求め、そのリクエストに応えたキョロは"俺マン"という人格レパートリーを獲得する。

要求するタマ、応じるキョロと森さん

 相手の要望に応える、即ち他者の望みに応える存在であるというテーマがGJ部には見受けられる。作中、他人の期待に応え続けるキョロと対照的に、新入部員として7話から登場するタマは他人に絶えず要求し続けている存在である。恵の作るケーキにつられて部室にくるようになったタマだが、毎日ケーキを作り続ける恵は疲弊してしまう。「恵を休ませてあげよう」という部員たちの申し出をタマは拒否し、「ケーキがないなら部室に来ない」とまで言い張る。"俺マン"と化したキョロがその場を収め、タマのわがままさは以降若干なりをひそめることとなるが、それでもキョロにお菓子を要求するなど彼女の本質は変わらない。タマの振る舞いは個人的には生意気と呼べるレベルすら越えてしまっていると思うが、そんな彼女がGJ部のふわふわした世界観にギリギリ調和できているのはタマ役の上坂すみれ*3の力量によるものだろう。

 タマはGJ部員でありながらどこか仲間はずれにされている。彼女だけお医者さんごっこで診察されていないし、キョロに絵を描かれていない。そもそもタマがキョロのように仮入部終了の証であるGJ部バッジを貰った描写もない。それ故に彼女は部員としては実はまだ"仮入部"の存在だといえる。「GJ部@」ではタマが自動ドアの前に立ってもドアがなぜか開かないというエピソードは語られる。ドアが彼女を感知しないのは周囲から彼女が認められていないことのメタファーのように聞える。

 そんな彼女とは対照的なのが森さんで、ハンバーガーを配達しにきた彼女を感知するように、(自動ドアではないはずの)部室のドアが自動で開くという演出がとられている。天使家の侍従で作中唯一の"大人"である森さんは雇い主である真央や恵のみならず、その彼らの友人であるGJ部員の望みにまで応えてくれる存在だ。「GJ部」ではGJ部GJ部中等部以外の存在は(ネコを除いて)排除されている。しかし森さんだけは例外で、それは森さんがGJ部に存在を求められる唯一の非GJ部存在だからだろう。逆をいえば、求められない限り、誰かの望みに応えようとしない限りは森さんが作品中に出てくることはない。キョロは初対面の森さんに「くるっと回ってほしい」とリクエストする。以降登場するたびにキョロに対して「こうでしたか」とくるっと回って見せるのはお約束で、彼女の人柄と立ち位置が集約された描写といえるだろう。

 また、この森さんとのくだりはキョロが珍しく他者に要望するシーンである。それも彼自身の性的な願望に基く要望である。詳しくは後述するが、「GJ部」の登場人物は"性"を抑圧している。キョロも"性"に対しては基本的に恥じらうスタンスである*4。しかしながらメイドに対する執着心だけは彼は隠そうとしない。恵のメイド姿に見蕩れたり、紫音にのメイド服姿を見たいと言ったり、この点に関してはキョロは欲望にきわめて忠実である。メイドとは森さんを見れば分かるように奉仕者であり、即ち他者の望みに応える存在である。キョロのメイドに対するエロスは、単純な性的欲求と結び付くものではなく、奉仕者としてのメイドに対する憧れととらえられる。つまりは彼もまたタマのように他者に何かを求めているということだ。しかしキョロはタマのように一方的ではない。

 最終回の前日談にあたるCパートで真央はキョロに「(自分はいなくなるがタマの世話は)大丈夫か?」と心配する。そして卒業式、キョロは「GJ部魂ってなんなんですか?」というタマの質問を「さあ何なんだろうね」とはぐらかす。一人ふてくされるタマを、キョロと真央が離れたところで見守る構図で「GJ部」最終回は締めくくられる(そして真央はキョロに向かい満面の笑顔を見せる)。求めることでしか他者と繋がれないタマと、他者に応えることで他者と繋がったキョロ。キョロは心配する真央に対し、先輩としてタマを甘やかさない姿勢を見せた。真央でなくても彼が率いるGJ部の明るい未来を予期できるようなラストだった。

"俺マン"と"肉食"

 基本的に他人の望みに応え続けていたキョロだが、6話で天使邸で真央に彼女のことを名前で呼ぶように求められたときは拒んでいる。 

 天使邸での出来事は部活動の枠外の出来事であり、そこで真央は部長ではないただの「真央」となる。真央はキョロに自分の名前を呼ばせることで、自分たちが「部長とキョロ」ではなく「真央とキョロ」として向かい合っていることをキョロに分からせようとするが、「部長とキョロ」ではない関係をキョロは拒む。

 実はキョロが真央を名前で呼ぶシーンは「GJ部」最終回までに2回ある。1話の時点である事情から*5真央のことを名前で呼ばされている。しかし彼が真央の名前を呼ぶ様子は文化祭やハロウィンのシーンと同様に意図的にカットされている。キョロがはじめて"俺マン"になった時にも「真央」と呼んでいる。こちらはカットされていない。"俺マン"になること、即ち男になることがキョロと真央を「部長とキョロ」ではない関係に導く鍵となる。 

 「GJ部@」AパートのNY編。キョロは一度も"俺マン"になっていない。それどころか彼は"キョロ子"になり、タマに「次期部長は先輩じゃなくてキョロ子でいいんじゃないんですか」と冷やかされて"ロスタイム"は終わる。

 真央はNYでの部活動に「アメリカらしさ」を求めていた。その際キョロに「草食系男子のお前もここでは肉食がルールだ」と言う。「草食系男子」と真央に評されるように、キョロは恋愛に消極的である。そんな彼をNYに連れてきて真央は「肉食系になれ」とハッパをかけた。それが「don'tではなくcan't」な真央のできる限りのアプローチなのだ。

 しかしキョロは肉食をしない。「GJ部@」では森さんの配達してくれたハンバーガーを部員たちが頬張り、咀嚼するGJ部特有のフェチズム溢れるシーンがある。そこでキョロは(とその妹・霞)の咀嚼シーンがない。「GJ部」恒例の意図的な描写排除がここでも行われている。

 そして"俺マン"にならず"キョロ子"と化すことも、肉食をしないことと同義である。真央はキョロに積極的になってほしいのだ。キョロは自らの意思で"変身"することで"俺マン"となる。しかし"キョロ子"になるにはその逆で、彼は部員たちに服を着せかえられ、メイクを施されることで"キョロ子"となる。"俺マン"と"キョロ子"は「能動/受動」の関係であり、キョロが"キョロ子"と化すことはNY旅行に込められた真央の期待に彼が応えられなかったことの表れでもあるのだ。

至らない「GJ部」と至る「GJ部@」

 「GJ部」は肝心なところに到達しない寸止め的なもどかしさのある作品であった。もちろん「GJ部」では最後にキョロが真央に成長した姿を見せていて、そこは物語の落としどころとしてきちんと成立しているだろう。しかしながら文化祭やプール、トリックオアトリート対決などの意図的なカットが表していた「空間の制限性」は、GJ部が部室という空間を超越できていないことの表れである。GJ部の"卒業式"は部室で行われ、「GJ部」は部室から放たれることなく完結してしまった。真央は部長ではなくなり、キョロが部長となったが、キョロと真央の関係が次の一歩に踏み出せるかどうかは保留されたまま。ただ当時の自分はキョロが去りゆく真央に成長した姿を見せる結末が好きだったし、恋愛関係に至らなかったことも納得できていた。もどかしさの理由を特に考えることもなかった。NYに出現したGJ部部室を目のあたりにするまでは。結果的にGJ部は空間と時間を超えた"絆"を獲得するには至っていなかったのだ。

 そして"至らない"精神の最右翼と呼べるのが最終回における原作改変だろう。1話で真央が漫画のキスシーンを恥ずかしがるシーンがある。原作ではそんな真央がキョロの唇に最終回で"噛みつく"。しかしアニメではそのシーンがカットされている。「GJ部」では"キス"に至らない。

 そんな"至らない"状態は「GJ部@」のAパートまで継続されることとなる。キョロが積極的になれないから恋愛に至れないキョロと真央の関係にもいえることだし、何時如何なる場所でも我々は兄弟の絆で結ばれている」という彼の言葉も現実には至っていない。彼らは"ロスタイム"という形で制限時間を伸ばしただけに過ぎず、NYにいるのにもかかわらず部室という空間上に制限されている。未だにGJ部は時間と空間に制限された関係性から脱却できていなかったのだ。

 Bパートで部室を飛び出し、「GJ部」では行くことのなかったプールに飛び込むことでGJ部は時間と空間の呪縛から解放され「何時如何なる場所でも我々は兄弟の絆で結ばれている」という言葉はようやく現実になったのだ。そしてキョロはついに真央を名前で呼び、二人は「先輩と後輩」ではない新しい関係に移行していく。

最後に

 「GJ部@」の初見時、正直なことを言えば自分は困惑していた。

 GJ部の"至らない"ところが、正確に言えば「去りゆく先輩のために成長した自分を見せる」というエンディングの為に恋愛に焦点をおかなかったGJ部が好きだったし、彼らが恋愛に至らなかったのもそういう文脈の上で好意的に受け止めていた。恋愛関係に"至らない"ことがこのアニメの"味"だという認識だった。

 そんなこんなで「GJ@」でNYに現れたGJ部部室を見た瞬間にふわゆるな世界観が売りの「GJ部」の強迫観念じみた異常性を突き付けられた気分になったし、何よりキョロと真央が「恋愛」とまではいかなくても新しい関係に踏み込んでしまったことが受け止めがたかった。要するに「GJ部@」は自分の「見たいもの」を見せてくれなかったのだ。

 そんな感じでずっと「GJ部」「GJ部@」をずっと避けてきたのだが、時間をおいて見返してみると当時では気付けなかった文脈とか構造に気付けたし、それに伴って「GJ部@」を肯定的に見られるようになった。結局自分は何も分かっていなかったということだろう。これにはアニメに対して「自分が見たいものを見せてほしい」という気持ちより「そのアニメが見せているものを見たい」という心境の変化があったことが大きい。

 ただ、自分の見たいものに目を瞑り、作品が見せている(見せようとしている)ものを抽出しようというスタンスは疲れるし、結果的にアニメを見ることは少なくなった。「そんなことをしても結局は"自分の見たいもの"しか見られないのでは」と自分を茶化す気持ちも影響してるだろう。

 そんなこんなで数年ぶりに視聴した「GJ部」「GJ部@」について、自分が見出いだしたもの書き留めておきたいという気分になった。その結果がこの記事だ。

*1:「」アリ表記は作品としてのGJ部、「」ナシは作中の部活としてのGJ部…という区別

*2:8話「シスターズ・アタック!」で結局行かずに終わったプールに

*3:バスト推定F1セブンのサブカルアイドルと見られがちな彼女だが、声優としても普通にすごいんだということをGJ部を見直していて実感しました

*4:目の前で着替え出す部員たちに恥じらったり、スリーサイズを言おうとする恵を制すなど

*5:恵のカップを割ってしまったお詫びに部員全員の名前を本人の前で100回言うという辱めを受けていた