ジョイナス最後の戦い

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グラスリップはなぜつまらないのか

はじめに

 「グラスリップはつまらない」と言われてしまったら、「うん、そうかもね」と私は言い返すほかにない。

 「私はそのつまらないアニメを十数回は見返しているのですが」と喧嘩腰に言い返してもいいのだが、どのような反応をされるかは想像に難くない。きっと私にとって望ましい反応は返ってこないだろう。それよりはこの作品の「つまらなさ」にしっかり向き合った方が建設的だろう。

 よってこの記事では「つまらなさ」について自分なりに解説していきたいと思う。

沖倉駆と私たち

 「グラスリップは難解だ」というのが世間一般の評価である。しかし筋書きそのものは決して複雑ではない。転校生の沖倉駆の登場で、仲良しグループに色恋絡みのトラブルが発生する。その過程で、登場人物たちは友人たちのことを実はよく分かっていなかったということを自覚し、相手を理解しようと試みる。ざっと説明するとこういうストーリーである。

 主人公の深水透子は転校生の駆と親密な関係になり、彼が「唐突な当たり前の孤独」というトラウマを抱えていることを知る。作品最大の山場である12話「花火(再び)」で描かれた幻想世界が、駆のトラウマとなっている「唐突な当たり前の孤独」の反映だということはさすがに理解できるだろう(できないと言われると困る)。「未来のかけら」の世界で深水透子は駆の立場を疑似体験し、「唐突な当たり前の孤独」を身をもって理解したのである。

 率直に言うと、この「沖倉駆を理解する」という顛末がつまらなさの原因である。

 透子と駆は相思相愛である。彼女が駆の気持ちに寄り添うことは、二人が関係を継続していくうえで自然なことだろう。しかし私たち視聴者にとってはどうだろうか?沖倉駆は私たちの肉親でも恋人でもない。アニメキャラにこういうのが適切なのかどうかは分からないが、駆は私たちにとって赤の他人にすぎない。私たちには彼の気持ちに寄り添わなければならない理由があるのだろうか?

 駆は視聴者が好意を抱くようなキャラではない。透子からは「気取っている」と言われ、実の父親さえも「ヘンな子に育ってしまった」と言う始末である。庭にテントを立てて寝泊まりする様子やイマジナリーフレンドと会話している様子を見る限り、変人という評価からは免れないだろう。

 対人関係にも問題がある。駆は透子にはご執心だが、透子以外の仲良しグループのメンバーとの交流にはやけに消極的である。色恋絡みで井美雪哉に恨まれてしまったのは不可抗力ゆえに可哀想であったが、彼もまた火に油を注ぐような対応をとってしまった。高山やなぎは彼を「ジコチューっぽい」と評するが、たしかに協調性のかけらもない。

 沖倉駆は協調性のない変人である。私なら彼と積極的に関わろうとは思わない。彼と関わらないまま一生を終えても構わない。沖倉駆なんて私にとってどうでもいい人間なのだ。そんな彼の気持ちに寄り添う必要があるだろうか?

沖倉駆を理解するということ

 物語の終盤、「未来のかけら」の正体が分からなくになり、透子に雪の幻影が見えるようになるなど謎が深まる中、深水透子は駆を理解しようと試みる。駆の事情などおそらく(私を含めた)大方の視聴者の興味の対象ではなかっただろう。しかし物語は意に介さんとばかりに沖倉駆のトラウマである「唐突な当たり前の孤独」を展開していく。

 繰り返すが沖倉駆は私にとってどうでもいい人間だ。どうでもいい人間の心の傷が理解できたところで面白くもなんともない。それ故に「つまらない」という感想を抱かれても仕方がないだろう。しかしなぜどうでもいい人間のトラウマをしることが「つまらない」のだろうか?鍵は12話「花火(再び)」にある。

 12話の幻想世界での疑似体験は一つの可能性を提示する。それは私たちも「唐突な当たり前の孤独」によって傷つきうるということだ。

 12話において無視できないのは、この回で私たちが目にしたものは駆の過去の回想ではなく、駆にとっての他者である深水透子の体験だということだ。もし12話が駆の回想として描かれていたならば、「唐突な当たり前の孤独」は私たちにとってあくまで駆のトラウマにすぎなかっただろう。しかし透子が「唐突な当たり前の孤独」を追体験し友人から忘れられるショックを味わったことで、他者の心にも爪痕を残しうるものだということが明白となる。「唐突な当たり前の孤独」はざっくりといえば、知人たちから自分の存在を忘れられてしまうということである。私たちも駆と同じような境遇に立てば、12話の透子のように傷つくだろう。傷つかない方が不自然である。つまりグラスリップが描き上げたのは、他者が我々と同じように傷つくという当たり前の事実なのだ。

 他者が我々と同じように傷つくことを私たちは忘れている。あるいはあえて見て見ぬふりをしている。なぜなら他者を傷つけるのは他でもない私たちだからだ。悪意のあるなしに関係なく、自分が誰かを傷つけているというのを自覚するのは後ろめたい。その苦しみを理解できるならなおのことである。「自分にはその特権がある」とか「自業自得だ」とか自己正当化をする切り口はいろいろあるだろう。「沖倉駆のような協調性のない変わり者になら何をしても構わない」と盲信するという手もある。ただ、後ろめたさを避けるもっとも効率がよく簡単な方法は、何も考えず、意識しないことだ。寝て起きるを何度か繰り返せば、誰かを傷つけたことなんて忘れてしまうだろう。グラスリップはそんな私たちを鈍器で殴り、私たちが目を背けているものを指摘したのだ*1。これが面白いはずがない。そういった意味で私は「グラスリップがつまらない」というのは同意せざるをえない。

*1:これで指摘するだけで終わっている無責任なアニメではないのだが、それを説明するのはまたの機会ということで