ジョイナス最後の戦い

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分かりやすいグラスリップ(前編)

はじめに

 「グラスリップ」はどういう物語だろうか。一つの解釈を示すと、それはトラウマを抱え他人との関りを避けていた沖倉駆が深水透子によって救済される物語である。

 しかしながら駆の救済にどれほどの価値があるというのだろうか。駆は協調性がなく利己的で、何を考えているかいまいち理解しずらいキャラクターだ。彼に好感を抱く視聴者はほとんどいないだろう。好きになれないキャラの救済を喜ぶというのはなかなかハードルが高い。

 好きになれないならば、哀れむのはどうだろうか。好意は持てないとしても、まさに「悲劇の主人公」とよべるほど気の毒な人なら、救われて「よかった」と思えるかもしれない。

 ところが駆の「悲劇の主人公」としての適格性にも疑問がある。私たちがエンターテインメントに求める悲劇とは、それまでの日常を一変させるような破壊力がある。そして破壊の爪痕が深いほど、再生の物語も見栄えする。だがしかし駆のトラウマとなっている「唐突な当たり前の孤独」は悲劇としては非常に地味である。要は、どこへ行っても「新入り」の駆は周囲と共通の思い出を持っていないから、ふとした瞬間に疎外感を覚えるということだ。友人たちの話題についていけなかった経験なんて誰にでもあるだろう。こうした疎外は人が人と関わる限り常に起こりうる。つまりは「唐突な当たり前の孤独」とは日常を一変するものであるどころか、極めて日常的なものなのだ。これを悲劇と呼ぶには仰々しすぎるといわざるをえない。

 そもそも沖倉駆はスペックの高い人間である。まず彼は容姿が優れている*1。そして彼は他人とは関わり合いを避けているだけで、いわゆるコミュ障ではない。透子を出会ったその日に呼び捨てすることから分かるように一気に距離を詰めてくるタイプで、むしろコミュニケーション強者といっていい。透子という天然で可愛いガールフレンドができたのはその証左である。傍から見れば、可哀想どころか羨ましいくらいである。「いったい何が不満なんだ」と思ってしまうほどだ。

 私たちからすれば沖倉駆はつまらないことで悩んでいるように見えるかもしれない。「「唐突な当たり前の孤独」なんて我慢しろよ」と言いたくなるかもしれない。だから未来が見える少年少女のお話と思わせて、沖倉駆というなんだかよくわからない青年の問題を掘り下げていった「グラスリップ」という作品がつまらなく思えるのは仕方がないことだと私も思う。仕方がないと思うが、我慢していただきたい。この作品を理解するには、よくわからないキャラクターたちの内面にもっと寄り添っていかなければならないのだ。

 キャラクターたちを、そしてこの作品を理解する上での2つキーワードをまず私は提示したい。1つは不条理不条理、すなわち道理に合わないものとの相対がこの作品では描かれている。そしてもう2つが、作中で登場するエッシャーの「昼と夜」が示唆する世界の多元性である。

 これらの2つのキーワードから「意味不明」とさえ言われる「グラスリップ」を解説していこうと思う。

1. 不条理アニメ・グラスリップ

1-1. シーシュポスの神話

 「グラスリップ」は不条理をテーマにした作品である。

 作中で描かれる不条理に言及する上で、触れなければいけないのがアルベール・カミュの随筆・「シーシュポスの神話」である。これは5話で永宮幸が白崎祐に貸した文庫本だ。カミュは人はいくら生を希求してもいずれは死ぬという不条理な運命にあることを踏まえ、「人生は生きるに値するか」という問いを立てる。

 カミュは人生という不条理に直面した人間の類型を3つ掲げる。

 ①「人生は生きるに値しない」と結論付け、「ならばこれ以上苦しむまでもない」と自ら命を絶つ自殺タイプ。

 ②不条理に目を背け、神や神秘思想といったものに縋る超越信仰タイプ。

 ③不条理に抗いながら生きていく不条理対抗タイプ。

 第三類型の引き合いにカミュがあげたのが神々から大きな岩を山頂まで運ぶ罰を課せられたギリシャ神話のシーシュポスである。シーシュポスは岩を山頂まで運ぶが、岩は麓へと転がり落ちてしまう。彼は決して報われることのない無益な労働を繰り返す。これほど絶望的なことはない。しかしシーシュポスは「すべてよし」と現実を受け入れ、麓へと駆け下りていく。カミュとしては第三類型「不条理に抗いながら生きていく」ということを推奨している。

1-2. 沖倉駆の信仰

 不条理はキャラクターたちが抱えている、あるいは直面する問題として「グラスリップ」の作中で顔を見せる。ここからは不条理を切り口に、各キャラクターを掘り下げていこう。

 まずは沖倉駆から触れよう。彼のトラウマ・「唐突な当たり前の孤独」は先述したとおり悲劇としてはいささかドラマチックさに欠けるものであるが、実は恐ろしい不条理性を内包している。「唐突な当たり前の孤独」は「ひとりぼっち」を逃れたところで避けられない孤独だからだ。駆がいくら努力して人間関係を構築したとしても「唐突な当たり前の孤独」は避けられない。ところが孤立を選んだとしても当然のように孤独が待っているだけである。ゆえに駆は逃げたくても逃げられない八方塞がりのような状況に立たされている。

 駆は「唐突な当たり前の孤独」に対してどのような態度をとっているのだろうか。先のカミュの類型で言えば、彼は二番目の超越信仰タイプである。駆は「未来のかけら」を「自分が完全な存在になるためのピース」と考え、「「未来のかけら」を集めて完全になる」ことを目的に生きている。「未来のかけら」への盲信が彼の希望となっているのだ。

 ところが物語が進むにつれて、「未来のかけら」が「未来」を表していないことが明らかになり、果てには駆は「未来のかけら」を聞くことができなくなってしまう。グラスリップ」とは「未来のかけら」という超越な存在に縋ることができなくなった沖倉駆の選択を描いた物語なのだ。

1-3. 深水透子の勝利

 一方で「グラスリップ」を深水透子の視点から見ると、駆との出会いによって透子が不条理の存在に気づく物語といえる。そして透子が不条理に勝利する物語でもある。

 深水透子は友人想いの少女だ。作中の彼女の行為は、そのほとんどが他人の為になしたものである。しかし透子の想いとは裏腹に、彼女の行動はほとんど報われない。いくつか例示しよう。

・「恋愛解禁」を宣言することで高山やなぎの恋をアシストしたつもりが、自分に密かに思いを寄せる井美雪哉を知らずのうちに焚き付け告白を受ける羽目になる(2話)。

・駆が高所から転落するという内容の「未来のかけら」を信じて山ではなく海へと出かけるが、そこで「未来のかけら」を通してやなぎの自身への嫉妬を目の当たりにする(7話)。

・駆の「思い出の場所」を作るべく高校の美術準備室で一夜を共に過ごすが、依然として駆は「唐突な当たり前の孤独」に囚われている(11話)。

 他人のために尽くしても報われない。これが本作品の主人公、深水透子に課せられた定めである。そしてその極めつけというべきイベントが12話における「唐突な当たり前の孤独」の追体験だ。

 透子は自分が身近な人々のことを全く知らないということに気づき、不安を抱えている。それゆえに彼女は駆の「唐突な当たり前の孤独」を理解したい。ところが彼女が「未来のかけら」の世界で体験した「唐突な当たり前の孤独」は、彼女を不安から解放するどころか、新たな不安に彼女を誘うのだ。幻想から目を覚ました透子は気を失うほどショックを受ける。

 幾度も不条理な場面に直面してもなお、彼女は「行かないで」と駆に手を伸ばす。「何があっても未来の私が全部解決してくれますように」と明るく、優しい表情を見せる。その姿を「すべてよし」と何度も岩を山頂に運ぶシーシュポスと重ねられるだろう。深水透子は何度も躓き傷つきながらも、他人の為に一生懸命であり続けた。未来の自分もきっとそうであると彼女は確信する。これが「グラスリップ」が描いた不条理への勝利である。

1-4. 欲しいものは手に入らない

 他のキャラクターたちの不条理への相対もこの作品では描かれる。

 彼らに共通するのはいくら欲しても手に入らないという不条理だろう。

 典型的なのが永宮幸である。同性愛者が異性愛者(深水透子)に恋をしているのだ。奇跡でも送らない限り幸の想いは報われないだろう。

 そして高山やなぎも、他の女(深水透子)に惚れている男(井美雪哉)に恋をしている。しかもその男は、戸籍上の自分の兄*2にあたる。こちらも相当に難儀な片想いだ。

 ただ、彼女たちは恋に無謀にはなれない。彼女たちの玉砕は透子たちの仲良しグループの崩壊を意味するからだ。つまり仲良しグループの存在が彼女たちを自制させているといえる。2話で永宮幸は「うちのグループ、恋愛禁止だから」と駆に対して牽制のウソをつくが、これはあながちウソではないのである。「恋愛禁止」が不文律化されているのだ。

 ところが「恋愛禁止」の不文律は転校生・沖倉駆によって壊されていく。駆は透子には積極的にコンタクトし、二人の仲が深まっていく。透子も「恋愛は解禁で」と宣言する。だが幸たちが愛を求めるということは、いくら欲しても手に入らないという不条理に正面からぶつかってしまうことを意味する。そして厄介なことに、駆の存在は彼らの不条理に恋愛という枠を超えた意味合いをもたらし、彼らを苦しめていくことになる。

1-5. 井美雪哉の再戦

 駆の登場により、分かりやすく揺れ動いてしまったのが井美雪哉である。焦った彼は透子に告白し、フラれてしまう。雪哉の透子への片想いは、結ばれる見込みのないものと化してしまった。私たち視聴者はそれでもなお未練がましくあがこうとする彼の姿を見ることとなる。

 雪哉もいくら欲しても手に入らないという不条理に相対するわけだが、彼の場合は他のキャラクターたちとは違った趣きがある。彼は既に不条理への勝利を経験しているのだ。

 井美雪哉の物語は、視点を変えると彼が沖倉駆の登場をきっかけに日々のルーティンを崩壊させてしまう話と解釈できる。そのルーティンとは毎日決まったコースを決められたペースで走るというものだ。なぜそんなことをしているかといえば、リハビリのためである。

 彼は毎日同じことを繰り返し続けている、といえばなんとなく察しがつくだろう。彼のルーティンは極めてシーシュポス的な行為なのだ。スポーツマンの夢を奪う怪我という不条理を乗り越え、毎日走り続ける彼はシーシュポスそのものだ。沿道の室内プールから眺める水泳部の女子部員たちの「四時半の君」への羨望の眼差しは、シーシュポス的に生きる人々への賛美の具体化である。

 そんな雪哉が、駆の出現により自分のルーティンを崩してしまう。恋のライバルの駆に張り合おうとした結果、いくら欲しても手に入らないという不条理が恋愛だけでなく陸上競技にも拡張されていく。リハビリ中の雪哉は、競技に臨めば必ず負けてしまう。それにもかかわらず、いい結果が出るはずもないのに記録会に向かい(5話)、周囲についていけるわけでもないのに陸上部の夏合宿へ向かう(7話)。手に入らない勝利を求めるあまり焦りを募らせルーティンを崩壊させていく雪哉は、彼を間近から見てきたやなぎからしてみれば「かっこわるい」のだ。

 井美雪哉の物語は、いわば不条理との再戦である。不条理に勝利したかっこいい自分を彼が取り戻す姿が「グラスリップ」では描かれているのだ。

1-6. 永宮幸の追放

 永宮幸は病弱な体で生きなければならないという不条理を生まれながらに背負っている。病気のせいで誰かと一緒にいたくてもいられないし、一緒に歩きたくても歩けない。幸は1話冒頭から自室の窓から一人で花火を見ている。他人にコミットしようとしても、病弱なせいでコミットメントから不本意に追放されてしまう。それが宮永幸のコンプレックスとなっている。

 そんな彼女にとって深水透子の存在は大きな救いである。彼女にとって透子はただの友人ではない。透子は「幻影が見える」という自身の秘密を唯一幸にだけ打ち明けている。二人は誰にも言えない秘密を共有する特別な関係なのだ。幸はそんな透子に深く依存し、恋愛感情すら抱いている。

 しかし沖倉駆の登場により、幸と透子の蜜月な関係は大きな転換を迎える。駆は透子と同じく「幻影を見る(幻聴を聞く)」ことができる。一方幸はその存在を知っているだけで、見ることも聴くこともできない。駆は幸と透子の秘密の関係に割り込んだばかりか、幸をそこから追放してしまったのだ。そのうえ、男女としても彼らは惹かれ合っていく。自分がいくら欲しても手に入らないものをやってきたばかりの駆が手に入れてしまうという不条理を幸は突き付けられることとなる。こうした不条理に対する憤りが、幸に駆と透子のデートに押しかけて妨害するという陰湿な企てを試みさせたのである。

 幸にとっては不条理の化身のような駆ではあるが、実はこの二人は非常に似ている。まず二人は共通してコミットメントの不全を問題にしている。幸は病弱な身体に、駆は「唐突な当たり前の孤独」に、他者とのコミットを阻まれている。また二人とも何かに依存することで絶望から逃れている。幸は透子との秘密の関係が、駆は「未来のかけら」への盲信が救いとなっている。そして二人の救いの糸は、共に物語の中で断ち切れてしまう。駆と同様に、彼女も頼みの綱を失った状態で不条理の前に放り出されるのである。

1-7. 視聴者の敗北

 最後に、私はこの作品が内包する最も重要な不条理に触れなければならない。それはこのアニメを視聴する私たちが直面する不条理である。

 本作はしばしば意味不明なアニメと評される。「未来のかけら」の正体は「あれは未来ではなく、これから起こること」というよく分からない説明で終わってしまったし、透子たちが見たそれぞれの幻影や幻聴の意味も作中で明示されることはない。最終話に至っては、透子が「未来のかけら」を通じて何を見たか駆にも視聴者にも一切明かされないという描写がある。このように、「グラスリップ」では私たち視聴者が解釈しなければいけないような不明な部分が多い。

 しかしながら視聴者の解釈に委ねるというのは残酷である。なぜなら私たちはいくら解釈しても、唯一絶対の答えを見つけることができないからだ。これは「グラスリップ」に限ったことではない。いくら解釈に揺るぎない妥当性を覚えたところで、それは自らの主観の域を脱しない。たまさか解釈が真実に符号してたとしても、そうだと保証してくれるものはどこにも存在しない。ここまで書き連ねた私の解釈だって、哀しいことにただの妄言にすぎないのかもしれないのだ。

 結局のところ私たちは、いくら解釈しても唯一無二の答えが何なのかは分からないし、仮に答えにたどり着いたとしてもそこがゴールだと気づけない。私たちはそのことに気づかずに、あるいは気付いていてもなお解釈することが求められる。もはや無益な労働であり、不条理である。

 私たちの物語を解釈しようという営みは報われない。なのにどうして、解釈をしなければいけないのか。何を好んでこんな解釈を要するアニメを見なければいけないのか。「全くもって馬鹿らしい」「時間の無駄だ」と思う人がほとんどだろう。そうやってこの作品は切り捨てられてきた。こうした視聴者の態度はエンターテインメントの消費者としてはきっと間違ってはいない。しかしながら、あえて言わせてもらえばこれは敗北である。あなたたちは、「グラスリップ」が示した不条理に敗北したのだ。それは裏を返せばグラスリップ」を受け入れるには、私たちも不条理に勝利する必要があるということだ。

 そもそも深水透子たちはなぜ不条理に勝利できたのだろうか。なぜ不条理に対して「すべてよし」と思えるのだろうか。その疑問に対する解釈は次章以降に持ち越そうと思う。(つづく)

つづきはコチラ

joinus-fantotomoni.hatenablog.com

*1:作中のほとんどの女性キャラからイケメン扱いされている

*2:雪哉が兄でやなぎが妹という設定らしいですよ