ジョイナス最後の戦い

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分かりやすいグラスリップ(後編)

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前編では「グラスリップ」が不条理のアニメであるということを示した。「グラスリップ」のキャラクターは不条理を抱えている。彼らは誰かに尽くしても報われず、求めたものは手に入らない。それでも彼らは終わりのない苦難と不安を抱えながら歩いていかなければならない。「グラスリップ」とは青年たちの不条理への挑戦を描く作品である。

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グラスリップ」にはもう一つ避けては通れないテーマが存在する。それはエッシャーの「昼と夜」が示唆する世界の多元性である。私が生きる世界とあなたが生きる世界は全くの同じものだ。しかしながら私とあなたの世界の見方は違う。世界とは見る人によっては希望に満ち溢れているものかもしれないし、絶望的なものなのかもしれない。このような意味において世界は多元的だ。ちょうどエッシャーの「昼と夜」のように、同じものを見ていても違った解釈が生じることがある。芸術にも、文学にも、ときには会話にすらも、私たちは異なる意味を見出してしまう。

個々の世界観が並立する世界。「昼と夜」や「未来のかけら」を通して「グラスリップ」が訴えかけたものは、このような世界の在り方である。私たちは他者の見る世界を完全には理解できない。そもそも他者が私たちとは違う視点から世界を見ていることを意識してすらいない。ゆえに私たちはすれ違い、食い違う。

後編では「多元的な世界の在り方」、そして「他者と私たちの関係」というテーマから「グラスリップ」を掘り下げていく。深水透子たちがこのような世界の在り方にどのように向き合ったかを解説していきたい。

2-1.  裏切られる実感 / 隠匿する他者

私たちは自分たちの素朴な実感のみに依拠して生きている。言い換えると、自分の目に映るものこそが世界の全てであると無意識に思い込んでいる。しかしながら、この世界には世界を違う視点で捉えている存在、すなわち他者が存在する。私たちと他者は同じものを見ているはずだが、他者と私たちの世界の捉え方は異なる。そして他者はその世界観を完全には開示してくれない。こうした他者に対して、どう向き合っていくべきなのか。こうした「対他者」というテーマは不条理と並ぶ本作品の屋台骨である。

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グラスリップ」の登場人物たちも、私たち同様に単一世界的な素朴な実感の上に生きている。たとえば、深水透子と対になるヒロイン・高山やなぎは極めて察しがいい。他人の顔色を伺い観察することに長けている。やなぎは血のつながらない兄・井美雪哉のことを「言葉なんかなくても、アイツが何考えているのかすぐに分かる」といい、透子のことを「分かりやすい」という。しかしどれだけやなぎが察しが良かったとしても、それはあくまで一元的な世界観に基づいたものにすぎない。雪哉にも透子にもやなぎの知らない彼らだけの世界がある。平たく言えば、彼女は他人のことを分かった気になっているのだ。

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もちろん他人のことを分かった気になっているのはやなぎだけではない。1話で深水透子は、外敵から守るために放し飼いにされたニワトリ(ジョナサン)を家に連れて帰るが、やがて自分が「ジョナサンの気持ちを分かった気になっている」にすぎないことに気づく。すなわち、この作品は1話の時点ですでに私たちの実感に対する疑義が投げかけられているのである。しかし後に透子は「ジョナサンには悩みがなくていいね」と、ジョナサンの気持ちを分かった気になってしまう(4話)。「他者を分かった気になっている」ことを忘れ、元の木阿弥に戻ってしまうのである。

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また、永宮幸のことを「お人形さんみたい」と評した白崎祐にも同様のことがいえるだろう。「お人形さん」のように可愛らしい外見の幸が、実は心中に鬱屈したものを抱えていたとは祐は夢にも思わなかっただろう。これは駆の「ダビデ」呼ばわりや、雪哉の「四時半の君」呼ばわりにも通じる。結局のところ、私たちは他者の外見しか見ることができない。いくら美しい見た目に見惚れ、褒め讃えたとしても、他者を理解することには何ら繋がらない。 

また、他者は全てを私たちに開示してはくれない。とはいえ、貝のように閉じこもられてしまったら分かってもらえるものも分かってもらえない。誰かに知ってほしいことがあれば、自ら積極的に伝えなければいけない場合もあるだろう。ただ、自分の想いを伝えれば万事が上手くいくというわけでもない。後先考えずに突っ走れば透子に告白した雪哉のようになる。だから、言いたくても言えない。本当は気付いてほしいのに、気づかれないようにふるまう。他者はこうやって私たちの知らないところで自らを抑圧している。

ならばどうすればいいのだろうか。他者を理解するという難題に「グラスリップ」は非常にシンプルな提案を持ち出してくる。相手のことを知るには相手の立場を経験すればいいのである。

深水透子をはじめとした本作品のキャラクターたちは、それぞれ相手の立場に立つことを試みる。ファンタジーならではの力技であったり、泥臭い手段であったり、それぞれやり方は異なるもののまるでシンクロニシティといわんばかりに3組の男女が同じことをしていく様が本作の見どころである。

2-2. 「未来のかけら」の正体

私たちは自分の目に映るものこそが世界の全てだという素朴な実感のみに囚われている。とすれば、深水透子と沖倉駆の目にしか映らない「未来のかけら」とは何だろうか?

「未来のかけら」の正体はキャラクターたちの深層心理の表象化とみなすのが自然だろう。本来なら表に出ないはずの個々の心理が、音や映像を通じて表出してしまうという現象と捉えるべきである。7話の「お似合いのカップルね」に表されるやなぎの透子への嫉妬、12話の「唐突な当たり前の孤独」をキャラクターの深層心理以外のものとして説明するのは不自然である。

ではなぜ駆たちは「未来のかけら」を未来予知だと誤認してしまったのだろうか?1話で「願い事は口に出すと自分が叶えてくれる」という白崎祐のセリフがある(実際は永宮幸からの受け売り)。これは「未来のかけら」の正体を示唆している。すなわち「未来のかけら」は人が口には出さない願望を映し出していたのである。そしてその人が願望を叶えようとすべく行動し、結果として叶えば、それはあたかも「未来のかけら」が未来を予知していたように見えうる。13話における「あれは未来じゃなくて、きっとこれから起きること」という透子の解釈も、「きっとこれから起きる」という部分を「自分が叶える」と読みかえれば理解できるだろう。ネタが分かればそう難しいことではないが、願望を叶えるという過程が理解できなければ未来予知と誤認されてもおかしくはない。

1話で透子は「ジョナサン、今幸せ?どう生きたい?私、お前を守れてる?」とニワトリに問いかける。当然ニワトリは鳴くだけで何も答えてくれない。沖倉駆も高山やなぎも永宮幸も、言いたくないことは言ってくれない。他者が言葉にできない感情を知るのは難しい。しかし「未来のかけら」はそれを可能にしてしまう。透子にとって「未来のかけら」の正体は灯台下暗しというべきだろう。

2-3. 窓越しの世界 

私たちは他者と違う風に世界を見ている。そして他者の世界観を想像することしかできない。あなたは他者が喜び、怒り、傷つくことを知っているが、彼らの喜びや怒りや痛みを実感することはできない。せいぜい想定するくらいが関の山である。それゆえ他者の生きる世界は私たちからしたら排他的で、外から眺めることしかできない異空間ともいえる。

グラスリップ」は自他の世界の境界を、窓やガラスなどを使って表現している。これから例を挙げて解説するが、その前に最終話にて永宮幸が私たちに提示する、江戸川乱歩の『押絵と旅する男』の冒頭の一文を引用したい。

この話が私の夢か私の一時的狂気のまぼろしでなかったならば、あの押絵おしえと旅をしていた男こそ狂人であったに相違そういない。だが、夢が時として、どこかこの世界と喰違くいちがった別の世界を、チラリとのぞかせてくれるように、また狂人が、我々のまったく感じ得ぬ物事を見たり聞いたりすると同じに、これは私が、不可思議な大気のレンズ仕掛けを通して、一刹那いっせつな、この世の視野の外にある、別の世界の一隅いちぐうを、ふと隙見すきみしたのであったかも知れない。

江戸川乱歩 押絵と旅する男

押絵と旅する男』は主人公の「私」が旅の途中で押絵を持ち歩く男と出会う物語である。押絵には老人と少女の姿が飾られてあり、この老人は男の兄だという。男の兄は押絵の少女に惚れてしまい、少女と一緒になるために押絵の中に入りこんでしまったというのだ。「私」が額縁の向こうに垣間見た世界というのは、「グラスリップ」における「未来のかけら」あるいは窓やガラスを使った演出のモチーフとなっている。

2-3-1. 永宮幸の部屋

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窓といえばまず紹介したいのが永宮幸である。「グラスリップ」は永宮幸を除いた4名が神社で花火を見るシーンで始まる。一方、幸は一人自分の部屋の窓から花火を見ている。このシーンはハーモニーショットが使われているシーンだが、窓の向こうの景色にはハーモニー処理がされていない、という演出がされている。すなわち窓の内/外に存在する差異が強調されているのだ。幸は窓の向こうの異世界に加わることができず、ただ窓の内側から眺めていることしかできない。

3話「ポリタンク」では、深水透子は「未来のかけら」によって大きな窓のある病室にいる幸の姿を見る。後に幸は検査入院をすることとなったため、「未来のかけら」が示したとおりの現実になったように見える。しかしながら「未来のかけら」は決して未来を予知するものではない。ならば「未来のかけら」が透子に見せた病室にいる幸の姿は何かだろうか。あれは幸の孤独な心情を投影したものなのだ。幸は山登りに参加したものの、他の4人と一緒に自分の足で登頂したわけではない。1話の花火大会と同じく、彼女は蚊帳の外なのだ。窓のある部屋の中で窓の外に想いを馳せながら、内側に留まらざるをえない自分を嘆いているのである。大きな窓のある部屋は幸の疎外と孤独な心情を示すメタファーであり、彼女の生きる世界の象徴ともいえる。

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そんな幸の部屋に、彼女に想いを寄せる白崎祐が上がってくる。祐は幸とは対照的な人物で、たとえば幸にとっての部屋は先述したとおり彼女の孤独の象徴である一方で、祐は自分の部屋にいても姉の百がノックもなしに頻繁に入ってくるせいでなかなか一人になれない。

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これは余談ではあるが、筆者は祐が部屋でピッケルを布で拭いているところに百が入ってくるシーン(12話)がとても好きである。

「ノックは諦めるから、少年の部屋に入るときは遠くから「今近づいてきていま~す」って雰囲気を…」

「なんで?」

「なんでって、危険だからに決まってるだろ…」

何が危険なのだろうか。竿(ピッケル)を扱くという挙動からも察せられるように、祐は自慰行為を見られたくないから気を遣ってくれと姉に遠回しに訴えている。筆者はひとりっ子なので、茅野愛衣の声を出す姉とこうした微笑ましいやりとりをする人生を送ってみたかった。ありがとう、ジュンジ。

とにかく、白崎祐は家の中では姉が自慰行為を許さないといわんばかりに構ってきて、外では雪哉たちと絶えず交流を続けている。「グラスリップ」の登場人物の中で、彼は最も孤独と無縁である。祐と幸のロマンスは、最も孤独に無縁な少年と孤独な少女のロマンスなのである。背景が違いすぎる二人にはこの先試練が待ち受けるわけだが(詳細は後述)、結果としては祐は孤独の象徴であった幸の部屋を全く違うものに変えてしまう。少女がひとりで窓の向こうの景色を眺めていた部屋には、今や同じ一緒に景色を見てくれる少年がいる。作中で幸が読んでいた『人間の土地』の「愛するということは、お互いに顔を見あうことではなくて、いっしょに同じ方向を見ることだ」というサン=テグジュペリの言葉をどことなく連想させるエンディングである。幸と祐が窓の外から鳥を見るエピローグは、作中でも最も微笑ましい場面の一つだろう。

2-3-2. 越境する深水陽菜

白崎祐に限らず「グラスリップ」のメインキャラクターたちは他者の世界もしくは場所に境界を越えて足を踏み入れていく。そうした中でサブキャラクターであるにも関わらず、境界を超える役目を担うキャラクターが深水透子の妹・陽菜である。

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深水陽菜は良くも悪くも遠慮がないキャラである。姉が見知らぬ男子(沖倉駆)とガラス工場で二人きりになっていても構わずにその場に入っていく。子供っぽいデリカシーのなさ(ただし可愛げがある)がある反面、ショックを受けて横たわる透子を心配し傍に寄り添う優しさをもっている。

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世話焼きな彼女のキャラクターが強く存在感を示すのが7話「自転車」である。陽菜が所属する中学の水泳部員たちは、リハビリのためランニングを日課にしている井美雪哉を「四時半の君」と呼びアイドル視している。しかし彼女たちはガラスの向こう側で颯爽と走る「四時半の君」の現状を知らない。雪哉が苦しそうに立ち止まるまで、彼女たちは雪哉の異変に気づけなかったのである。そして異変に気づいてもなお女子部員はガラスを通して「四時半の君」をただ見ることしかできない。こうした中で陽菜だけは、競泳水着を着たまま外へ飛び出し、自転車で雪哉を追いかけ「かっこわるくならないでください」と彼に伝える*1

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この「かっこわるくならないでください」のシーンは良くも悪くも「グラスリップ」を象徴するシーンである。それほど面識があるわけでもない雪哉の為に陽菜は走る。それも窓ガラス越しに普段見ている雪哉が、かっこわるくなりそうだからという理由で。いくら陽菜が世話焼きな性格とはいえ、行き過ぎではないか?と私としても思う次第である。

しかしながら自他の境界を越えるという点においては、水泳少女がプールを飛び出して青年のジョギングコースにやってくる構図は清々しいほどに明快な描写である。私たちは「四時半の君」(=王子)の為に水から陸に上がる陽菜に人魚姫を重ねることができるだろう。極めて表象的な描写である。ガラス越しに存在するだけだった他者に向かい、少女は境界を越えて会いに行く。こうして少女の世界は広がっていく。「ヒナ」が大人になっていくことを予感させる場面である。

一方の雪哉にしてみれば、陽菜の行動は他者の存在を否応なし実感させるものである。「かっこわるくならないでください」という言葉は、陽菜が雪哉の知らないところでずっと彼を見てきたことを意味する。彼はこの後に陸上部の夏合宿に行くことを決断するが、これは陽菜にかっこわるい自分の姿を見られたくないという逃げとも解釈できるし、かっこわるいままではいられないという彼の奮起とも捉えることもできる。どうとらえるべきかは微妙であるが、いずれにせよ陽菜が雪哉を動かしたことだけは事実である。

2-3-3.  高山やなぎと黒い影

深水陽菜が果たした役目は本来ならば高山やなぎが担っているはずである。やなぎは雪哉の傍にいて、彼をサポートし続けていた。しかしその役目はあくまで家族としての高山やなぎのものである。雪哉に告白し、異性として自分を見るようにしむけた結果、これまでの家族としての二人の関係性は崩壊してしまった。想いを告げて次に進もうとするやなぎの覚悟が皮肉にも雪哉の迷走に拍車をかけてしまった。だからこそ、陽菜にピンチヒッターとして白羽の矢が立ったといえるだろう。

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さて問題のやなぎの告白シーンであるが、これもまた良くも悪くも『グラスリップ』を象徴とするシーンとなっている。

「帰ってないのか?」

「うん、休憩所。少し休んで、水とか食糧とか補給して、次に備える場所」

「水持ってないじゃん」

出だしからあっけにとられてしまう。 決意を秘めたやなぎの「ここは私たちが次のステップに進むための休憩所なんだ」というポエムに、雪哉は全くついていけない。やなぎが何を考えているかが全く見えないから、「水持ってないじゃん」という見当違いの(ただ彼からしてみれば至極真っ当な)反応を雪哉はしてしまう。やなぎはそんな雪哉を日傘の下に招き入れると、今までひた隠しにし続けてきた想いを告げる。

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高山やなぎに関しては、窓や扉ではなく、陰で彼女の世界が表現されている。やなぎは雪哉への想いを隠し続け、恋敵の透子の前では嫉妬心を見せないよう友人として勤めて明るく振舞ってきた。その一方でやなぎは4話で転校生の沖倉駆に心を許し*2、5話では彼に自分の想いを語る。このとき2人は日の当たらない場所にいる。日陰はこうしたやなぎの心理的抑制のメタファーであり、幸の部屋や雪哉のジョギングコースに相当する彼女のフィールドなのである。そこに他者を招き入れることは、すなわち開示を意味する。やなぎの日傘を雪哉にかざす所作は、彼女が雪哉に対して閉ざしてきたものをさらけ出そうという合図なのである。陽菜の「かっこ悪くならないでください」にもいえることだが、キャラクターがリアリズムを無視し、メタファーを体現するためにしたとしか思えない動作に及ぶ点は『グラスリップ』の大きな特徴といえよう。

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また、やなぎの心理を象徴する陰は作中で度々参照されるエッシャーの『昼と夜』を連想させるものでもある。『昼と夜』は、見方次第で「昼」の世界と「夜」の世界のいずれかが見えるというトリックアートである。視点を移していくと「夜」は黒い鳥に転じて「昼」の世界に顕現し、逆に「昼」は白い鳥となり「夜」の世界を羽ばたく。これと同じことが、7話の浜辺のシーンで発生する。やなぎの陰は「未来のかけら」が見せる黒い鳥の幻影として深水透子の世界に顕現する。ヒッチコックの『鳥』を彷彿とさせる鳥たちの襲来は、「お似合いのカップルね」という文字面だけなら冷やかしにもとれるセリフが、明らかにネガティブなものであることを示唆する。

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日陰の下に身をひそめるやなぎと対照的に描かれるのが雪哉である。5話前半では真夏の太陽の下で記録会に挑む雪哉と、万全の紫外線対策をしてきたやなぎが対比される。彼らはすぐ近くにいる。しかし、炎天下/日陰と違う場所に属している。やなぎは太陽の下走り続ける彼に「休憩所」といって日傘を差しだしたが、彼女には日傘を畳んで雪哉と共に太陽の下に照らされるという選択肢もある。やなぎはそれを8話以降で実行するのだが、これに関しては後に違う切り口から解説しよう。

2-3-4. 性と愛の美術準備室

主人公・深水透子は転校生・沖倉駆に惹かれていく。しかしながら当初本人はその自覚がなく、4話にて井美雪哉に指摘されて初めて気づく。透子が駆への恋心を自覚した高校の美術準備室は、彼女の「場所」として度々作中で舞台となる。

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余談になるが、私は4話のこのシーンが大好きである。美術準備室に向かう透子についていく雪哉。画面はものの数秒の間に、透子の長い髪、白い腕、細い腰を映し出す。言うまでもなくこれは雪哉の視線である。雪哉が持て余している情欲、未練がましさ、そして後ろめたさがワンスプーンで堪能できる最高の描写だと思う。このシーンだけでこのアニメはもっと評価されるべきではないだろうか。

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話を本筋に戻そう。雪哉は透子についていきながら、美術準備室で二人きりになることを拒否し、引き戸の前に立ち止まる。廊下と美術準備室を遮る引き戸が、ここでは男女関係における「一線」となっているのである。直前では視聴者にもわかるほどに情欲を昂らせていた雪哉であったが、ここは理性で踏みとどまる。彼は分かっているのである。たとえ一線を越えたとしても、透子は自分を拒絶するということを。そして、一線を越えてこの戸の向こうに行く資格があるのは、あの気に食わない転校生であるということを。

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美術準備室は8話で再び舞台になる。雪哉に駆への恋心を指摘された美術準備室に、「今度は俺と一緒に行ってみないか」と透子を誘う駆。しかし彼も戸の向こう側に行こうとしない。それどころか雪哉かやなぎに「「未来のかけら」について話した方が良い」という。透子と駆は「未来のかけら」という他の人間にはない共通項を抱えた特別な関係である。「未来のかけら」の存在を知る人間を増やすということは、彼らの関係の特別性を希釈するに等しい。つまり駆は一線を越えるどころか、透子との距離を離そうとしたのである。これが「唐突な当たり前の孤独」の影響であることは言うまでもない。

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このとき透子は「未来のかけら」によって窓の外に降る雪と、引き戸の前で自分と駆がキスをする幻覚を見せられる。これは駆の深層心理である。「唐突な当たり前の孤独」を恐れる一方で、駆は強く透子を求めているのである。そのことを10話で駆に話すと、「こうすれば、それは「未来のかけら」だってことだろ」と駆はついに意を決し透子にキスをする。このキスシーンはなかなか凝った演出である。駆と透子は私たちから見てそれぞれ別々のガラス越しに立っている。ガラス越しに見える透子たちは、額縁に飾られた2枚の絵のようである。2人が唇を重ねると、2人は1つの額縁に収まる。『押絵と旅する男』をどことなく思わせる描写である。

引き戸を一線とするならば、このキスはあくまでも一線上での出来事である。しかし駆は11話でついに戸の向こう側に足を踏み入れ、2人は美術準備室で一夜を過ごす。このとき透子と駆は性行為に及んだのかもしれない。少なくとも家に帰らない透子のために便宜を図った深水陽菜はそう思っているようである*3。ところが駆は特別な思い出、特別な関係を手に入れたにもかかわらず「唐突な当たり前の孤独」を払拭できずに街を出ようと考える。青年は勇気を出して少女との一線を越えたが、トラウマを克服し、この先も他者と歩み寄り生きていこうと思うまでには至らなかったのである。今度は少女が境界を越えていく番である。こうして物語は佳境である12話「花火(再び)」に突入していく。

2-4. 白崎祐と永宮幸 

ここからはこれまでに書いたことを踏まえたうえで、3組の男女がたどり着いた結末について解説していきたい。このアニメは意味不明と評されてはいるものの、3組ともカップルが成立するという割とすっきりとした結末を迎える。余談だが、余り物なしに全員がくっつく展開に筆者は思わず「おいおい『ママレード・ボーイ』かよ」とツッコんでしまった*4

さて、最初に触れたいのが白崎祐と永宮幸のカップルである。永宮幸というキャラは相当に示唆的なキャラクターで、「グラスリップ」という作品の解釈上重要なメタメッセージを送り届ける。それは「願い事は口に出すと自分が叶えてくれる」や「同じ場所でも季節と時間でまったく違う場所になるの」といったセリフであったり、『シーシュポスの神話』、『人間の土地』、または『押絵と旅する男』といった文芸作品という形で私たちは目の当たりにする。これらは幸からの私たちへの課題であり、私たちは解釈を要求される。そして白崎祐も私たち同様に彼女からの課題に取り組むこととなる。

2-4-1. 「何でも…何でもないの」

祐は3話で幸からカミュの『追放と王国』の文庫本を貸される。『追放と王国』は6編の短編からなる作品集で、祐はその1番目の作品『不貞』を読み、幸に「バスの中の蠅がさ…」と幸に感想を言う。『不貞』は冷めた関係の夫婦を描いた作品で、妻は夫の知らないところでとある体験をし、そのことに強く感動する。しかし彼女の感動を夫は決して理解してくれないだろう、との諦念から「何でも…何でもないの」と夫に言い、話は幕を下ろす。「何でも…何でもないの」は、祐と幸が『追放と王国』の映画を見ているシーンでも流れていたセリフ(フランス語)であり、12話で「唐突な当たり前の孤独」を体験した深水透子がその直後に呟く言葉でもある。

「何でも…何でもでもないの」にあるのは、大事なことがあっても、それを口にしたくないという心理だ。「グラスリップ」はこうした心理を尊重する立場で描かれている作品である。それどころか想いを口にするということが肯定的に描かれない。想いを口にしたことで井美雪哉は透子にフラれ、高山やなぎに想いを伝えられたことで雪哉はさらに迷走することになった。想いを伝えた結果として、お互いが傷つき、関係が崩壊してしまうかもしれない。つまりは、幸が祐に貸した『追放と王国』には、孤独感、疎外感、そして透子への禁断の愛情を隠しながら、誰にも言えずに生きる彼女の苦悩が重ねられているのである。

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ところが、祐は『追放と王国』を読んで「バスの中の蠅がさ…」というピントが外れた感想を残す。さらには『追放と王国』の映画を見た時も肝心の「何でも…何でもないの」のシーンで彼は爆睡している。彼が本を読むのも、映画に行くのもただ幸に好かれたくて彼女の趣味に合わせているだけにすぎない。幸が4話で読んでいた『人間の土地』には「愛するということは、お互いに顔を見あうことではなくて、いっしょに同じ方向を見ることだ」という言葉があるが、それに則ってみれば、作中前半の彼は愛を証明できていないのかもしれない。

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ただし祐は1話では3D眼鏡をかけた幸にスマートフォンの点滅で疑似的な花火を見せ、6話では線香花火を見せる。ひとり部屋から花火を見ざるをえなかった幸の孤独に、祐が寄り添ってくれるという期待はどことなく感じ取れる。空気は読めないが、自分に好意を向け、自分に輝くものを見せようとしてくれひたむきさがある。幸はそんな祐に賭けることとなる。

2-4-2. あやふやな言葉 

『追放と王国』が祐にとってはバスの中の蠅の印象しか残らなかったように、人によってある事物について何にフォーカスを当てているか、どのような意味を見出しているかは一致しない。「グラスリップ」で何度も反復して取り沙汰された多元性、不一致性は、私たちの言葉もその対象とする。言葉とは辞書的な意味だけではなく、時にハイコンテクストな意味合いを持つ。それゆえに私たちのコミュニケーションは乖離してしまう。

2話「ベンチ」では言葉によって透子たちが振り回される様子が描かれる。永宮幸は深水透子に会いに来た沖倉駆に対し「うちのグループ、恋愛禁止だから」とウソをつく。幸は透子に特別な感情を抱いていて、それゆえに透子に接近しようとする駆を牽制したい、という文脈を視聴者はきっと読み取っているだろう。しかし透子の目線からはそれが分からず、本当に彼女たちのグループには恋愛禁止という取り決めがあったと誤解してしまう。そこにやなぎの「雪哉に告白する」というウソも加わり、やなぎの恋を応援すべく透子が「恋愛は解禁で」と宣言したことで*5、井美雪哉が透子に告白し、フラれてしまうことになる*6

グラスリップ」という作品は沖倉駆の登場により深水透子たちの人間関係に不和が生じる物語である。しかし上記の騒動を見れば分かる通り、トラブルのきっかけを作ってしまったのは「恋愛禁止」という嘘をついてしまった幸である。幸の言動が、グループ内の不和と同時に言葉の脆弱性をさらけ出したのである。

2-4-3. 月がきれい

しかしながら言葉の多義性はただ厄介なだけではない。秘密の合言葉を使ったやりとりを友人としたことはないだろうか?話の内容を誰かに悟られないように隠語を使って会話をしたことはないだろうか?言葉とは多義的であるがゆえに、ごく狭い範囲でしか通用しない意味を生じさせることができる。私たちはそのおかげで気兼ねなく他人の悪口が言える。あるいは暗号化など情報セキュリティという形で恩恵を受けることもある。そして言葉をもって物語に混迷をもたらした永宮幸もまた、言葉の多義性に救われることとなる。

幸が祐と麒麟館の展望台で成し遂げたことは、彼ら2人の間でしか通用しない言語コミュニケーションである。「I Love You」を「月がきれい」と訳した夏目漱石のエピソードを引き合いにし、幸は透子と祐に告白をする。

「二人に告白。私、透子ちゃんが好き。祐くんが好き。」

「ありがとう」

「私、やっと言えた。祐くんのおかげで言えた。祐くんにも言えた。」

「うん、今日は月がきれいだね」

月がきれい」が「I Love You」という意味になるエピソード。これは幸の告白の多義性を示唆する。麒麟館で幸がしたものは深水透子への愛の告白であると同時に、幸の祐への「自分は透子を愛している」というカミングアウトなのだ。祐の方も彼女の意図を理解し、「うん、今日は月がきれいだね」と返す。その一方で透子は幸の告白の意味を今一つ理解していない。「二人とも大好きだからこれからもよろしくね」くらいにしか思っていないだろう。『昼と夜』のように受け取る側次第で捉え方が変わってしまう状況が生じている。

見方を変えれば、これは祐と透子の幸の中での位置づけが逆転した瞬間ともいえるだろう。幸は自分に好意を寄せる祐を拒まなかったものの、透子が部屋にやってくると追い出し、彼女と2人きりになることを望んだ。透子という特別な存在の前に、祐は排除される立場だったのである。一方、この麒麟館での告白は逆に透子を置いてきぼりにするものである。告白の意味は幸と祐のみが知っている。そこに透子は入り込む余地がないのである。幸と祐はどうしてこうした状況を作ることができたのだろうか?順を追って説明しよう。

2-4-4. 『夢十夜』、『名人伝』、そして『月をあげる人』

7話で駆に嫉妬した幸は、祐を利用して透子と駆のデートを邪魔する。そのことを知った祐は傷つき、彼を傷つけてしまった幸も後悔する。そして8話で祐は一人で山に登る。常に誰かと共にいる祐が、作中で唯一他者を拒絶するシーンである。祐とて傷つけば沖倉駆のように人を避けるようになるのである。ただ孤独には耐えられなかったのか*7、山から降りてきた祐は幸からのメールを読み、彼女に歩みよろうとする。

この時、幸は「明日のために」と題し、『夢十夜』とだけ本文に書かれたメールを送る。夏目漱石の『夢十夜』を読んでほしいという催促である。後に祐は中島敦の『名人伝』と稲垣足穂の『月をあげる人』も幸に読まされることになる。かつて祐が読んだ『追放と王国』と『シーシュポスの神話』と同様に、幸はこれら3作品にも自身の想いを重ねている。これらのタイトルを読むことで、告白に至る幸の心情を推察することができるのである。それぞれの粗筋と私なりの解釈を述べていこう。

夢十夜

夢十夜』は不思議な10編の夢を描いた漱石の連作集である。その中で幸と祐になぞらえられそうなのが「第一夜」である。男が死んだ女を埋めるという夢で、死ぬ間際に女は「100年待ってください。また逢いに来ます。」という。月の光が差し込む夜、男は女の言ったとおりに亡骸を庭に掘った穴に埋める。そうしてまた「逢いに来ます」と云った女を待ち続けるが、なかなか100年は来ない。数えきれないくらいの長い年月が経つとだまされたのではないか、と男が思い出す。すると百合の花が咲き、男は100年が経ったことに気付く、という話である。

なぜ「第一夜」なのかというと、百合だから同性愛者の幸を連想させる、という短絡的な話ではなく、死ぬ女に病弱な幸を重ねられるということでもない。女の再生に男が携わるという話だからである。この女というのは、透子に対する情念を抱えた永宮幸のことである。女は血色がよく、傍目から見れば死ぬようには見えない。それでも女は「死にます」と断言し、その通りに息を引き取る。幸の透子に対する愛も同じで、愛想がつきるどころか駆に嫉妬するくらいに強いのである。それゆえに、幸は執着を絶たなければならないと思っている。つまりは麒麟館での告白は、彼女なりの深水透子への決別である。そして彼女の決別を見届け(あるいは手伝い)、新しく生まれかわった彼女に会ってほしいという白崎祐へのプロポーズなのである。

名人伝

次に祐が読むこととなる中島敦の『名人伝』は、昔の中国の弓の達人の物語である。主人公の紀昌は弓を極めるべく日々研鑽し、達人の域にまでに至る。紀昌にとって弓の腕を競うべき相手は彼の師のみとなり、紀昌は師を射殺そうと企む。しかしながら紀昌の企ては失敗し、自分の行いにたいして慚愧の念に駆られる。師は紀昌に新たな目標を与えるべく、斯道の大家たる老師を紹介する。師いわく「老師の技に比べれば、我々の射のごときはほとんど児戯じぎに類する。」という。弓を極限までに極めた老師は、「不射之射」、すなわち弓矢を射ることなく空を飛ぶ鳥を落とす神業を取得した。老師のもとで「不射之射」を極めた紀昌は弓矢を手にすることはなくなり、やがて弓矢を見てもそれが何をするためのものであったか分からなくなったという。

幸は弓矢を極めようとして師を殺そうとした紀昌に、透子を想うがあまり祐を傷つけてしまった自分を重ねている。そして弓矢を持たなくなり、次第には弓矢の用途まで忘れてしまう紀昌の姿に理想を抱いているのである。

『月をあげる人』

麒麟館での告白の後で祐が読むことになる『月をあげる人』は稲垣足穂の短編集『一千一秒物語』の中の一編で、1ページにも満たないような短い話である。どういう内容か説明すると、二人の登場人物が滑車を引いて月を夜空に上げるという話である。「月をあげる」という行為が、月の地球照を見ながらの告白のメタファーになっている。幸の告白は、祐が彼女の意図を理解することで成立した共同作業である。祐はきっとこれから『月をあげる人』を読みながら自分たちが成し遂げたことについて再確認するのだろう。

2-4-5. そして雪の世界へ

女の死と生まれ変わりを描いた『夢十夜』の「第一夜」、達人の弓矢への執着が失われていく過程が『名人伝』。幸のメールは、この2作品を通して彼女の心情を祐が汲んでくれるどうかという賭けである。

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先にも述べたが、「グラスリップ」は他者を理解するという難題に相手の立場に立つという解決策を提示する作品である。今回は登山家の祐が読書家の幸の立場に立ったということだ。祐は幸と同じ本を読むことで、幸の行動を追体験し、彼女の心境を推し量ることができたのである。とはいえ、同じ本を読めば同じ感想を抱くはずだという想定は楽観的にも程があるだろう。しかし幸は今回祐に「明日のために」というメッセージを送っている。こうした刷り込みがあるから、祐は『夢十夜』と『名人伝』に、「新しく生まれ変わる」「執着を断つ」というメッセージを読み取りやすくなっていることは見逃せない。

ただ、いくらなんでも幸のやり方は非効率的で回りくどすぎる。そう思われても仕方がないだろう。しかし彼女がこうした手段を利用した理由ははっきりしている。彼女が祐に伝えたかったことは、彼女が言いたくても言えなかったことだったからだ。言いたくても言えない。でも誰かに理解してほしい。それゆえ、幸は自分の想いを文学作品のテキストに絡めることで祐に察してもらうという非効率的で回りくどい方法をとったのである。

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こうした幸の意図も祐は受け止めたと思われる。祐は10話で駆に「透子さんのことが好きなのか?」と尋ねるが、黙りこんでしまう駆を見て「言わなくてもいい」と質問を撤回する。駆は透子のことが好きだが、「唐突な当たり前の孤独」のせいで自分たちは上手くいかないだろうと考えている。だから「好き」とは言いたくても言えないのである。祐はそこまで深くは理解できてはいないだろうが、理由あって答えたくないという駆の気持ちはちゃんと察したのである。永宮幸との一件がなければ祐はきっとこうした思慮深さを身につけなかっただろう。

一方で、幸は依然として祐の立場に立っていない。彼女もまた祐と同じ場所に立ちたいのである。それゆえに幸は11話で祐と一緒に山に登る。今度は彼女は自分自身の足で。

ところが下山中に幸は突如姿を消す。慌てて幸を探す祐に、幸が物陰から声をかける。

「私の声聞こえる…?」

「うん、聴こえる」

「近くにいるのに相手が見えないって、なんか不思議じゃない?」

「さっちゃんから俺は見えてる?」

「まだ、よく見えない」

 ここまでの2人の積み重ねはなんだったのか、と思いたくなる。幸が身を挺して山に登った結果が「近くにいるのにあなたが見えない」なのである。幸が祐と同じように山に登るということは、病弱な彼女にとってはひたすら苦しいことなのだ。結局のところ幸と祐は違う世界を生きていて、幸には祐の気持ちが分からない。祐も透子のことについては理解してくれたが、彼女のこうしたコンプレックスまではまだ分からない。だから「まだ、よく見えない」のである。彼らにはお互いまだまだ理解していない部分がありすぎる。ただ一部を理解しただけにすぎない。まるで岩を何度も山頂に運ぶシーシュポスのように、理解という途方もない営みを続けていかなければならないのである。最後の最後で彼らに待ち受けるものは不条理なのだ。

このとき幸と祐のもとに雪が降る。この雪はやなぎと雪哉、そして透子と駆のもとにも降り注ぐ。いったい何のメタファーなのだろうか。後で説明しよう。

2-5. 高山やなぎと井美雪哉

高山やなぎが井美雪哉のためにとった行動は、日の出浜からいなくなった彼の代わりに町の中を走ることだった。そしてやなぎは走りながら目にした町の風景について雪哉に一方的にメールした。これはどういうことなのだろうか。

作中のやなぎと雪哉の行動には関連性がある。実は彼らは度々お互いの立ち位置を入れ替えているのである。雪哉がとった行動を作中でやなぎが行う、またはその逆といった事例が積み重ね描かれている。

2-5-1. よく似た2人

高山やなぎと井美雪哉は、お互いの立場を入れ替わり作中で経験している。分かりやすいところでいえば、2人とも片想いをしていて、雪哉が2話で告白をすればやなぎも5話で告白をする。また、やなぎはケガをした雪哉をケアしているが、4話では逆に自分がケガをして雪哉の肩を借りることになる。そして面白いことに、2人とも沖倉駆に6話で暴力をふるうことになる。

「言葉なんかなくても、アイツが何考えているのかすぐに分かる」とやなぎは言う。それは雪哉が彼女に似た境遇にいるゆえに、自分を彼に重ねやすいためである。雪哉は透子にフラれてしまうが、それでも未練がましく足掻こうとする。やなぎも雪哉が透子を好きだと知っていてもなお諦められない。だからこそ、沖倉駆に決して勝ち目がない勝負を持ちかけられた雪哉の憤りを彼女は理解できる。自己を雪哉に拡張できるから、やなぎは駆を殴ったのである。

とはいえ、いくら「分かる」といえども、やなぎは雪哉を全て理解しているわけではない。他者、いや「わたし」を含めた万物は未知な領域を無限に内包している。理解とはそこから一部を切り取るだけの行為にすぎない。限りなしに他者を理解するということは原理的に不可能である。したがって私たちに求められることは、他者を絶対的に理解することではなく「分かる」の範囲を拡張していくことである。

2-5-2. フッサールとやなぎと幸

8話でやなぎは夏合宿に行ってしまった雪哉の代わりに彼のジョギングコースを走る。偶然にもお互いの立場を入れ替わり経験していた2人であるが、今回やなぎは意図的に雪哉の立場に立っている。つまり彼女はなぜ自分が雪哉を「分かる」のか理解したのである。

こうしたやなぎの気づきを示唆するのが、1話で透子によって押し付けられたニワトリ・フッサールだ。フッサールという名前は現象学の父として名高いオーストリアの哲学者エトムント・フッサール(1859-1938)にちなんでいる。フッサール現象学を極めて端的に説明する*8と以下の通りになる。まず私たちには主観と客観が一致するような絶対的な認識は不可能である。しかしながら私たちは自分たちの認識を疑わず、正しいと確信する。その確信がどういう条件によって導かれるかを追求しようというのが、フッサールの意図するものである。つまり、やなぎは現象学的な思考に基づいて自らの「分かる」という確信がどのような条件で抽出されたのかを理解したのである。

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やなぎに自分の「分かる」の在り方について気づかせるきっかけを与えたのは永宮幸である。8話でやなぎは「透子ちゃんとダビデ(駆)は特別な関係なのかも」と語る幸の表情から彼女が透子に恋愛感情を抱いていることに気づいてしまう。ただ、なぜやなぎが幸の感情を恋愛感情だと決めつけられたのかが疑問に残る。幸はただ親友が唐突に現れた転校生に奪われるのが嫌なだけかもしれない。視聴者目線では幸を同性愛者(バイセクシャルといった方が正確か)と言いきれるが、やなぎの視点からでは判断材料に乏しいだろう。しかしながらやなぎには強い確信があった。やなぎに確信をもたらす条件があるとすれば、それは幸がやなぎ自身と重なりうる存在だからである。2人とも報われない恋に心を痛めている。それゆえやなぎは透子と駆の関係を語る幸の哀しそうな顔に、不随意に自身を投影し、確信したのである。私たちは他者に自分を投影する瞬間、すなわち他者と自分が相似関係にあると直感した瞬間に他者を理解する。この幸とのやりとりでやなぎは自分の「分かる」の在り方に自覚的になり、同時に他者を理解するために自分を他者と同じ境遇に立たせればいいと気づいたのである。これが彼女が雪哉の代わりにジョギングを始めたいきさつになる。

ただ、やなぎに到来した確信は事物の正確性を一切保証してくれるわけではない。見当はずれの推察と変わりない可能性があるのだ。しかしながらこの作品は、雪哉を通して他者を理解しようとするやなぎの試みを肯定する。

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「お前、俺がいない間、同じコース走っていたのか?」

「うん」

「そうか。海沿いの道さ、風が気持ちいくて少し回復するだろ?」

「うん」

「駄菓子屋のじいちゃん、今日もいたか?」

「うん」

「ラストの上り坂、全然大したことないのに、すっげえキツイよな?」

「‥‥うん」

 やなぎは雪哉のジョギングコースを走ることで、雪哉と同じ風を受け、同じ景色を目にし、同じ苦しみを味わった。10話の雪哉の問いかけは、やなぎがジョギングを通じて雪哉と同じものを感じたことであるという証明である。そのことに気づき、はっとして表情を崩すやなぎの描写はこの上もなく素晴らしい。去年発売したブルーレイボックス*9を買えとは言わないから、dアニメストアに登録して月額料金*10払って見てこい、と言いたくなるぐらいである。

2-5-3. 生まれ変わる少女

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8話での幸とやりとりの後に、やなぎが自宅で衣服を全て脱ぎ捨てるシーンが差し込まれる。この直後に、やなぎがジョギングを始めるシーンが描かれる。この脱衣シーンは決して性的なサービスシーンではなく、4枚のハーモニーショットを交えつつ、決意を秘めた彼女の昂りを感じさせられるようなものとなっている。

脱衣シーンで思い起こしたいのがP.A.WORKS×西村純二の先行作品である『true tears』の湯浅比呂美で、バイク事故から仲上家に帰ってきた彼女が、仲上眞一郎の母に汚れた服を脱がしてもらうというシーンがある。眞一郎の母の嘘により苦しめられてきた比呂美が、嘘から解放され眞一郎の母との和解を予兆させるような場面となっている。やなぎの場合も同様に、衣服を脱ぎ捨てるという挙動に過去との決別ないしは再出発という意味が込められている。

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また「グラスリップ」は衣服を渡すという行為にも同様の意味を含意する。9話でやなぎは深水陽菜に自分のお古の赤いワンピースを譲る。その服というのも井美雪哉に以前褒められたものだという。それを知って陽菜は受け取りを拒もうとするが、やなぎは「うち、新しい自分になるの」という。

「新しい自分になる」というやなぎの言葉は、永宮幸が白崎祐に読ませた『夢十夜』の「第一夜」を連想させるものである。やなぎも幸も「生まれ変わる」という発想に至っているのである。さて、私は先ほど「第一夜」に言及したわけだが、実のところ作中では祐が読んでいるのは「第一夜」ではない。祐が読んでいるのは「第四夜」なのである。*11この「第四夜」は「第一夜」を転生させた物語といえる。内容は「臍の奥」からやってきたという老人が、「手ぬぐいが蛇になる」といいながら河に入って消えていくものである。老人の行為は入水そのものであるが、その一方で彼は手ぬぐいに命を与え蛇にしようとする。女の死と引き換えに百合の花が咲く「第一夜」を連想とさせる筋書きだ。また、老人は白い髭をはやしているものの、皴のないつややかな肌をしている。そして「臍の奥」からやってきたことと相まって、老人は老いた身でありながら赤子のような存在に映る。これも傍目からは血色がよく生起に満ち溢れているのにもかかわらず自らの死に強い確信を抱く女の姿と重ねることが可能だ。

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 「第四夜」の老人の影を、私たちは深水陽菜に見ることができる。水泳少女として水に飛び込んでいく姿に、老人の入水を連想することができる。さらには、12話では牛乳ヒゲをたくわえた陽菜の姿が描かれる。そして彼女は幼鳥を表す「ヒナ(=雛)」という名前がつけられている。「こじつけもいい加減にしろ」と思われるかもしれないが、この作品の転喩性に散々触れてきた身としては、西村純二は意図的に陽菜を老人に寄せているとしか思えない。

陽菜=老人という観点に立てば、やなぎが彼女に託した赤いワンピースは老人が蛇として命を吹き込もうとした手ぬぐいとみなすことができる。雪哉に褒められた赤いワンピースはやなぎの過去である。過去の自分と決別し、生まれ変わろうという彼女の意志を『夢十夜』の文脈からも読み取ることができるのだ。

2-5-4. そして雪の世界へ(再び)

「雪哉はバカ」とやなぎは言う。勝ち目がないと分かってもなお彼は挑んでしまう。いい結果が出るわけもないのに記録会に行き、透子が駆のことが好きだと分かっているのにもかかわらず駆と勝負しようとする。そして夏合宿に参加したものの、雪哉は結局周囲についていくことができなかったのである。

1話で雪哉に振り当てられたニワトリの名前はロジャーという。13世紀の哲学者・ロジャー・ベーコンにちなんでつけられた名だ。ロジャーは経験知・実験観察を重視した近代科学の先駆者である。勝ち目がないと分かっていても雪哉の姿勢は、経験知を重んじるロジャー的なものである。勝ち目がないというのはあくまで予想にすぎない。記録会や勝負といった形ではっきりと敗北を経験しなければ、彼は理解できないのである。

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つまり雪哉は、日の出浜を離れてやなぎのいない状況を経験することでようやく彼女の存在のかけがえのなさを実感できたのである。やなぎに告白され、2人の家族としての関係は揺らいでしまったが、それでも彼女の声を聞けば落ち着く自分がいることに雪哉は気付いたのである。俗っぽい言い方をすれば、これで雪哉はやなぎルート突入である。あとはハッピーエンドを迎えるだけだ。

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しかしながら、高山やなぎはこの先、家を出ていくという。雪哉はそのことを知っている。やなぎとの関係に覚えた彼の安らぎは、いつかシーシュポスの岩のように転げ落ちていくかもしれない。ここでもまた不条理が問題になる。

そんな彼らの下にも雪風が吹く。物語は最大の佳境「花火(再び)」に突入する。

2-6. 深水透子と沖倉駆

沖倉駆は非常にもどかしいキャラクターである。彼は深水透子を間違いなく愛しているが、その一方で他者との関係を強く忌避している。透子たちのコミュニティを(意図的でないにしろ)危機に陥れたことに関しても「副次的なものだから仕方ない」で済ませてしまっている。繋がりを恐れ、軽んじながらも内心では愛を求めている。グラスリップがバトルものの作品なら間違いなく彼は敵だろう。もちろん主人公に改心させられ仲間になるタイプの敵である。

透子はどうやって駆を改心させればいいのだろうか。11話で駆と一夜を共に過ごす(≒処女を捧げる)という切り札を使った透子であるが、それでも駆は「唐突な当たり前の孤独」から逃れられない。一体どうすれば駆は他者と繋がりながら生きることを選んでくれるのだろう。

2-6-1. 雪と反実仮想の世界———「花火(再び)」

8話以降に透子が目にするようになった雪は駆の孤独な深層心理の反映である。高校生活最後の夏を友人たちと楽しもうとする透子たち。一方で「唐突な当たり前の孤独」に捉われる駆は彼女たちのように夏を楽しめない。彼からしてみれば透子たちが満喫する夏は冬のようなものである。両者の世界の見え方の違いが雪という形で表現されているのである。

12話「花火(再び)」は、1話「花火」で描かれた花火大会を「唐突な当たり前の孤独」に捉われる駆の視点で描いている。透子と駆の立場は入れ替わり、透子は転校生としてこの世界を体験することとなる。日の出浜にやってきた透子は駆をはじめとする仲良しグループと知り合いになり雪の中の花火大会を見る約束をするが、いざ会場に赴けば誰も彼女のことを覚えていない。そこには深化したコミュニティの自覚なき排他性が描かれている。時間をかけて育まれたつながりにはたくさん思い出がある。一方、新参者には思い出が一切ない。転校生の透子は、彼らと共にいる限り疎外感を覚える運命にある。これが「唐突な当たり前の孤独」なのである。

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神社でひとりで花火を見る透子を駆が見つけてくれる。このシーンは1話「花火」の反日仮想的な内容となっている。「花火」では孤独な駆は周囲のお祭り騒ぎを尻目に、一人で神社の周りを通り過ぎる。一方「花火(再び)」では孤独感に襲われる透子に駆が「やっと見つけた」と声をかける。この「やっと見つけた」という言葉は、1話で透子が「未来のかけら」を通して聞いたものと同じである。1話の「やっと見つけた」は何を意味しているか一見理解しずらい。一方で「花火(再び)」における「やっと見つけた」は具体的な意味をもつ。これは寂しい想いをしている透子が聞きたかった言葉なのだ。

駆の当初の目的は「自分が完全になるピース」を探し求めることだった。彼は自分が何かが欠落した人間だと思い込んでいる。こうした彼の物言いは抽象的で何を言わんとしているかが上手くつかめない。しかし話が進んでくると彼は「俺が透子に助けてもらってもいいかな」という想いを吐露する。結局のところ、駆は孤独な自分を誰かに救ってほしかった。すなわち1話で透子が聞いた「やっと見つけた」という声も、駆が誰かにかけてほしかった言葉なのだ。「未来のかけら」は深層心理を投影するものである。つまり神社で駆が透子に声をかけるシーンは「こうであってほしかった」という駆の反実仮想の投影ともいえるだろう。

反実仮想の投影は他の2組にもあてはまる。「花火(再び)」の世界では、幸と祐は幸の部屋で、雪哉とやなぎは日の出橋で、それぞれ2人で花火を見ることとなる。幸の部屋というのは先述したとおり幸の孤独の象徴で、彼女はこの場所でひとりきりで花火を見ざるをえなかった(1話)。日の出橋は5話でやなぎが雪哉に告白した場所であり、彼らのすれ違いが決定的になってしまった場所でもある(5話)。「花火(再び)」で描かれた幸たちの姿は、その時々に苦い思いをした彼らの「こうであってほしかった」という願いの反映なのである。

そしてバラバラで花火を見ることになってしまった彼らの「みんなで花火を見たかった」という願いが幻影となり、「花火(再び)」の世界に現れる。幻影としての幸たちは透子のことを忘れているような振る舞いをするが、そもそも彼女たちは透子の存在を知らない。なぜなら「みんなで花火を見たかった」というのは透子が町にやってくる前からの彼らの願いであり、「みんな」には新参者の透子は含まれないからだ。

2-6-2. 真夏のホットコーヒー

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深水透子が「花火(再び)」の世界で「唐突な当たり前の孤独」を追体験している最中、永宮幸たち4人は偶然にもカゼミチに集う。彼女たち4人は真夏なのになぜかホットコーヒー(マンデリン)を頼んでいる。これが1人2人ならともかく、4人全員なのだから不思議である。花火や山登りなど夏を満喫していた彼女たちはここへきて全員揃って季節外れなことをしている。これも一見何を意味しているか分からない描写である。

実を言うと、このアニメには真夏なのに熱いものを口にしたがる奇特な人たちが他にもいる。

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まず紹介したいのが、駆の母・美和子である。10話で彼女が「唐突な当たり前の孤独」について透子に教えるシーンなのだが、彼女はここで興味深いことを言っている。

「世の中で一番嫌いなのは、冬に小松菜を水洗いすること。」

駆の「唐突な当たり前の孤独」に触れる直前に、なぜかこのようなセリフがねじ込まれている。重要なのは美和子が冬に小松菜を水洗いすることが嫌いなことではなく、冬に小松菜を水洗いをするのは嫌だという一般論である。真冬に冷たい水に手を浸したがる人間はまずいないだろう、という常識的な温度感覚が提示されるのだ。ところがこの場面、美和子たちは真夏なのにホットティーを飲んでいる。

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彼女の息子・駆も10話でホットコーヒーを注文している。「真夏にホットコーヒーなんて大人だね」と祐も驚く。

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そして深水透子の母・真理は、透子が連れてきたニワトリ(ジョナサン)を見るなり「夏に水炊き‥‥最高」といい、夕飯を水炊きにしてしまう(1話)。明らかに季節外れな献立だ。

彼らは真夏にいるにもかかわらず、世界に冬を見出している。こうした季節外れの描写は、花火を見たり山や海にいくなどの夏を満喫する描写と対になっている。彼らには夏を満喫できず、季節から外れてしまうという心持ちがある。つまり「花火(再び)」と同様に、これらの描写も孤独感の表れなのである。

季節外れのメニューを求めたキャラクターたちは心に寂しさを抱えている。沖倉駆は言うまでもなく、沖倉美和子も愛する夫と離れ離れの生活を送っている。幸は祐に「まだ、よく見えない」と言うし、やなぎと雪哉もいつかは離別してしまう。誰しも自分と他者との繋がりに不安を抱えつつ生きているのだ。

それでは深水真理はどうだろうか?

2-6-3. 深水真理と沖倉駆

透子の母・真理は、13話で夫・健から受けたプロポーズを述懐する。

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「あれ」

「ん?」

「素敵なプロポーズでした」

「えっ」

「出会った時も、初めてのデートのときも、あなたとっても一生懸命で、私絆されちゃった」

随所で聞かされる健の思い出話から、彼が真理に一生懸命アプローチしてきたことが伺える。初デートで真理に2時間も待たされたのに「今来た」と言って気遣ったり、倒れた真理のために昇り階段を「こんなの下り階段さ」と言って駆け上がるなど、健はとにかくひたむきだった。そんな彼の気質は娘の透子に受け継がれている。彼女は作中友人たちのために奔走し、駆も「何事にも懸命なのが君の美点」と評される。

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また、真理は13話で自身も若かりし日に「未来のかけら」を見ていたことを明かす。彼女もまた「未来のかけら」が自分の未来を映していると思っていたらしいが「その後に起こったことは、全部思いもしなかったことばっかり」と振り返る。きっと彼女は健のことを好きになり、結婚するにまで至るとは思ってもいなかっただろう。

「未来のかけら」が見える少女が一生懸命な少年に絆される。これは駆と透子の関係そのものである。駆にとっても自分が透子と恋愛関係になったのは想定外だっただろう。駆が透子に興味をもったのはあくまで彼女が「未来のかけら」を見ることができるからにすぎない。彼は「自分が完全な存在になるため」に「未来のかけら」を求めているだけだ。しかし駆は透子に異性として好意を抱き、「透子に助けてもらってもいいかな」と思うまでになる。「唐突な当たり前の孤独」を恐れ、人とのつながりを避けてきた彼にしては思いもしなかったことではないだろうか。

真理は未来の駆の姿である。彼女が透子の連れてきたニワトリを見て水炊きが食べたくなったのも、初デート直前に若冲の鶏を模写した過去の自分、すなわち健に絆される前の自分を思い出したからではないだろうか。当時の彼女も人とのつながりを恐れていて、彼に嫌われるためにあえて2時間もデートに遅刻したかもしれない。それでも健は懲りずに真理にアプローチし続け、彼女の愛を勝ち取った。

健が真理に見せたひたむきな姿勢。これこそが透子が「唐突な当たり前の孤独」から逃れるべく他者とのつながりを避けようとする駆を救うカギとなる。他者を拒もうとする人間に対し、どれだけ一生懸命になれるか。相手を自分との関係性につなぎとめようとする真摯な力。それを透子が駆にどれだけ見せられるかにかかっている。

2-6-4. 深水透子の欲望

沖倉駆は深水透子のことを「何事にも懸命なのが君の美点」と評する(3話)。崩壊しそうな友人関係を繋ぎとめるため、そして駆のために彼女は奔走する。しかし彼女の行いはなかなか実を結ばず、彼女自身も傷つくことになる。こうした不条理を経験してもなお彼女は懸命な自分のままでいられるだろうか、ということが13話では問われる。

透子はこれまで危機を自分の欲望にまかせて乗り切ってきた。透子はつながりを求め、維持していこうという欲求がとても強い。自分が傷ついたところで、他者とのつながりを捨てはしない。だからこそ彼女は懸命になれるのである。透子は雪哉に告白をされても、雪哉ややなぎと友人として付き合っていきたいという気持ちを失わなかった。また、「未来のかけら」によってやなぎの本音を知り、これ以上「未来のかけら」を見ることを怖れてしまったが、それでも彼女にはやなぎや駆に「会いたい」という気持ちがあった。

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しかしながら「花火(再び)」における「唐突な当たり前の孤独」の追体験は彼女のそれまでの危機とは違う意味合いを持つ。これまでの透子の奮闘はつながりを保つためのものだった。一方で「花火(再び)」における透子はこれからつながりを作っていく立場である。既に構築された人間関係を維持することと、出会ったばかりの赤の他人と人間関係を築き上げることは全く違う。透子は「花火(再び)」の世界のやなぎたちに対して思入れはなく、親しみもない。そんな彼女たちと「唐突な当たり前の孤独」に怯えながら付き合っていけるのだろうか?

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これが駆が普段から抱えている不安感である。透子は「唐突な当たり前の孤独」の追体験を通し、身をもって他者を避けようとする駆の気持ちを理解してしまったことで、皮肉にも自らの欲望を肯定できなくなる。駆の根深い人間不信の前では、透子の彼と一緒にいたいという想いはエゴと化す。言いたくても言えない思いを抱え、透子は「何でも…何でもないの」と口にする。

2-6-5. 多元性と同質性

エッシャーの『昼と夜』が表しているように世界の見え方は人それぞれ異なる。このような意味で世界とは多元的で、それゆえに人々はすれ違う。「グラスリップ」が描いてきたものはこうした私たちの世界の在り方だった。

しかしながら後半にいくにつれて、バラバラな物の見方をしているはずのキャラクターたちに同質性があることが見えてくる。たとえば危機に直面した永宮幸と高山やなぎは偶然にも新しい自分に生まれ変わるという発想にいたり、その同質性を『夢十夜』のテキストが繋いでいる。また水炊きやホットコーヒーなど、「季節外れ」のメニューがそれぞれのキャラクターが孤独を抱えていることを表している。私たちの世界の世界の見え方は異なるものの、実際にはお互いに重なり合う余地がある。

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こうした同質性こそが、バラバラな私たちを繋ぐカギなのだ。それが顕著に示されるのがやなぎたち4人が偶然カゼミチに集まり偶然ホットコーヒーを注文するシーンである。雪哉は自分が人知れずグループに波風を立ててしまったことを祐たちに謝ろうとする。しかし、祐は「誰にだって秘密がある」と雪哉を制す。祐は雪哉が言おうとしていることは分からないが、本当はそれを雪哉が言いたくないということを理解する。これは10話のカゼミチを訪れた駆と祐のやりとりの反復である。そのときの駆もホットコーヒーを注文していた。祐は謝ろうとする雪哉の姿に駆との同質性を見出したのである。そして、その同質性はホットコーヒーを偶然揃って注文した彼ら4人にも拡張される。彼らは孤独を感じ、誰かに会うためにカゼミチにやってきた。そうしたら誰かに会いたくてカゼミチにやってきた友がいた。偶然4人が揃って注文したホットコーヒーは、彼らの気持ちがまるで一緒だということを示しているのである。私たちは孤独を感じると誰かに助けを求めたくなる。それは他者も同じで、だからこそ私たちはつながり合うことができる。どんなに寂しくて辛くても、誰かとつながり合うことができるというのは希望である。4杯のホットコーヒーは傷つき苦しみながら他者と向き合ったやなぎたちが掴んだ希望の証なのである。

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そして「唐突な当たり前の孤独」を追体験しかえって何も言えなくなってしまった透子の突破口となるのも同質性である。今までにない「未来のかけら」を体感した透子は、駆の母の演奏中に倒れてしまう(13話)。そんな透子に寄り添う駆だったが、庭で待つ家族たちを呼ぼうと彼女の下を離れようとした瞬間に透子が彼の手を掴む。

「行かないで」

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このシーンは、6話の沖倉邸の玄関先での場面と全く逆の構図になっている。駆の母・美和子に気を遣って帰ろうとする透子の腕を駆が掴み引き留める。この場面は雪哉との対立があった後の出来事である。駆は透子が雪哉の味方をするのではないかと不安になっていて、こうした不安感が駆に透子を引き留めさせたのである。そして無意識に相手を引き留めた手こそが、「唐突な当たり前の孤独」によって他人を避けているはずの駆だが、透子を確かに求めていることの証明である。

したがって透子は駆の手を無意識につかんだことで、あの瞬間の彼が自分を求めていたことを理解するのである。「駆と一緒にいたい」という彼女の願いはもはやエゴでなく、歴然とした2人の共通する想いなのだ。それゆえ透子は駆をもっと理解するために、沖倉美和子にアンコールを求める。

2-6-6. 幻想即興曲

透子の「すごくドラマチックなのを」というリクエストに応えた美和子はショパンの『幻想即興曲』を弾く。このとき透子は「未来のかけら」を見たはずなのだが、このとき彼女が何を見たのかは作中で一切明かされない。P.A.WORKSのファンなら『true tears』の「雷轟丸とじべたの物語」の結末が明かされずに終わったことをきっと思い出すだろう。何が描かれているのかは視聴者の想像に任されている。この作品は最後の最後まで視聴者に解釈を求めてくる。


Horowitz plays Chopin: Fantasie-Impromptu Op. 66

透子がこのとき見た「未来のかけら」の内容を考察するうえで一つのカギとなるのが美和子の弾いた『幻想即興曲』である。『幻想即興曲』はA(主部)-B(中間部)-A(主部)-コーダという構成で成り立つ複合三部形式の楽曲である。

私、怖くない。だってあれはこれから起きる未来なんかじゃないから。でもきっと、きっと駆君は…駆君はいなくなる。

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「駆君はいなくなる」という透子のモノローグが聞こえるタイミングで美和子は『幻想即興曲』を弾き始める。この時流れるのは曲の構成における「A(主部)-B(中間部)の冒頭」までの部分である。透子のモノローグが終わると場面は切り替わり、BGMは『即興幻想曲』のまま上述のカゼミチでやなぎたちがホットコーヒーを飲む場面になる。

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13話のBパートでは、今度は『幻想即興曲』の中間部が流れ始める。該当する場面はカゼミチで駆がやなぎに浜辺での出来事に関する事情を説明する場面だ。ここでは「B(中間部)-A(主部)の冒頭」までが流れる。

「俺が透子を傷つけた。俺には透子が何を見たのか思いがつかないんだ」

「いいことばかりじゃないわよ。気づくってことは‥‥何?」

「井美雪哉のことか」

「なっ‥‥そうユキのこと。言葉なんかなくてもアイツが何考えているのかすぐに分かる」

「たしかに、それは少し厄介そうだ」

「それで、駆。あなたはいなくなるの?なんだかそんな気がして」

このシーンで着目したい点は、曲の中間部が終わり再び主部が展開された瞬間に何が起きているかである。主部の旋律が流れ出したとき、カゼミチではやなぎは「それで、駆。あなたはいなくなるの?なんだかそんな気がして」と駆に尋ねている。これは奇しくも沖倉邸で美和子が『幻想即興曲』を演奏しはじめたときの透子のモノローグ「駆君はいなくなる」と内容が一致している。2人は偶然にも同じことを考え、それぞれ駆に追求としている。ここでは『幻想即興曲』の主部の旋律は、彼女たちの追求のかぶら矢となり、『夢十夜』のように両者の同調を提示する役割を果たしているのだ。

しかしながら透子がどんな「未来のかけら」を見たかは明かされず、やなぎの質問に駆がどう答えたか(そもそも答えたかどうか)すらも視聴者には分からない。駆の真意は何なのだろうか。

そのヒントとなるのもこれまた同質性である。この作品は中盤以降キャラクターたちの同質性が浮き彫りになっていき、彼らの行動が次第に同調していく。とくに示したわけでもないのに6人の男女はお互いを理解すべく行動し、やがて透子と駆を除く4人は偶然にもカゼミチで出会い、全員ホットコーヒーを注文する。幸とやなぎに至っては、危機に直面した際の「生まれ変わる」という発想が偶然にも一致している。『幻想即興曲』を背景に透子とやなぎが日の出浜からいなくなろうとする駆に迫っていったのもこのようなシンクロニシティの一環だといえるだろう。

ホットコーヒーの場面では偶然4人がカゼミチに集まったが、透子だけはカゼミチに集まらなかった。これは透子だけが同調しなかったと捉えるべきなのだろうか。否、そうではない。この作品の同調性を考慮すると、透子が『幻想即興曲』を耳にしながら見た「未来のかけら」の内容に4人との同調性があったとみなすべきだろう。言い換えればカゼミチでやなぎたちが交わしたやりとりには、透子が見たものとの同質性があったともとれる。やなぎたちは偶然全員が頼んだホットコーヒーに「私たちは孤独を抱え、つながりを求めている」という同質性を感じ、そこに希望を見出していた。透子が「未来のかけら」を通して見たものも希望を抱かせるようなものではないのだろうか。

2-6-7. 冒険者の選択

透子が見た「未来のかけら」について考察を深めるうえで、沖倉駆について今一度整理してみようと思う。透子は彼のことが知りたくて、沖倉美和子にアンコールを求めたのだから。

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駆を語る上で無視できないのがニワトリのジョナサンである。1話で駆は「他所から来た」というジョナサンを見て「1羽だけ浮いている」という。転校生の駆はジョナサンに自分を重ねていて、以降ジョナサンは駆の分身のように作中扱われることになる。

ジョナサンの名前の由来は『カモメのジョナサン』である。他のニワトリの名前が思想家・哲学者にちなんでいるなか、ジョナサンだけが寓話の登場人物(?)になる。

話のあらすじに触れよう。主人公のジョナサンは「飛ぶ」という行為に価値を見出し、その可能性を追求しようとしているカモメである。一方で他のカモメたちは「飛ぶ」という行為を餌をとるための手段としかみなしていない。次第にジョナサンは群れの中で変わり者扱いされ、群れから追放されてしまう。そんなジョナサンのもとに2羽のカモメたちが現れ、ジョナサンは彼と同じ思想を抱いたカモメたちの集う世界に導かれていく。そこで高度な飛行術を身に着けたジョナサンは、下界のカモメたちにも彼の思想を広めようとする。

13話で井美雪哉はジョナサン(カモメ)のことを「強いていうなら冒険者」と評する。私としては「啓蒙者」と言いたいところだが*12、人々がそれまで見向きもしなかった未知の領域に光を照らそうという点で、ジョナサンは冒険者といえるのかもしれない。そしてこうしたスタンスは実は駆にも共通する。

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駆は山や森を散策し、美しく木漏れ日が差し込む場所を発見する(4話)。そして5話で透子で透子をこの場所へ連れていき、以降何度も作品の舞台となる。木漏れ日が照らすこの森は、日の出浜にずっと住んできた透子ですら知らない場所である。

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また駆は麒麟館の展望台に燕の巣があり、そこに2羽の雛鳥がいることを発見する(7話)。これも町にずっと住んでいる透子が気づかなかったことである。

駆は人々が目を止めもしなかった場所や風景を発見し、透子に教えてくれる。その姿は餌をとるための手段にすぎなかった「飛ぶ」という行為に新しい意味を見出そうとしたジョナサン(カモメ)に通じるものがあるだろう。沖倉駆とは冒険家的な志向の持ち主なのである。

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さて、駆のこうした冒険家志向はどのように育まれてきたのだろうか。たとえば透子の場合は、懸命な性格は父親譲りで、天然なところは母親譲りであるといえる。そして彼女の芸術志向も両親の影響が大きいと考えるのが自然だろう。13話で駆と父・利尋の会話から、駆は父の影響で登山を趣味にするようになったことが明らかになる。険しい道も厭わない冒険者精神のルーツがここに伺える。

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母・美和子の影響も大きいはずである。駆は透子に母について「一か所に留まらない人」「幼い俺には母が何をしても正しいことをしているように見えた」と語る。「一か所に留まらない」ことが「正しい」という感覚は、未知の領域に惹かれる冒険者の志向に通じるだろう。

駆が一か所に留まれない性質だということを踏まえると、「唐突な当たり前の孤独」はより厄介なものとある。一か所に留まれない駆は時間をかけて人間関係を深化させていくことが困難だ。人間関係を深化させることにこだわるならば、彼は一か所にとどまり「冒険」を諦めなくてはならない。とはいえ、彼がこの先、積み上げていくであろう人間関係に、「冒険」を諦めて「唐突な当たり前の孤独」を耐え忍ぶだけの価値があるのだろうか?その答えは即座に出るものではないだろう。だからといって他人とコミットすること自体を諦めれば、その道の先には孤独が待つのみである。「唐突な当たり前の孤独」とどう折り合いをつけるか。駆にとってそれは今後の人生を左右する問題なのである。

駆は物語の終盤に「父と日の出浜で暮らすか」「母についていって日の出浜を出るか」という選択を迫られ、結果として駆は日の出浜を出ることになる。駆は「唐突な当たり前の孤独」を恐れて透子から逃げてしまった、と捉えた視聴者もなかにはいるのかもしれない。しかしながら、駆の冒険者としての一面を踏まえると違った解釈が可能である。駆は人間関係から逃避するために日の出浜を出たわけではなく、「未知の世界に足を踏み入れたい」という自身の欲望を叶える為に、冒険者として日の出浜を出ていったのではないだろうか。

2-6-8. 深水透子に出会えてよかった

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さて、深水透子の話に戻ろう。沖倉美和子の演奏する『幻想即興曲』を聴き「未来のかけら」を見た透子。その後彼女はトンボ玉を作り、駆と一緒に空へ投げる。この行動は「駆君と一緒に花火を見たい」という彼女の願いを諦め、その代わりに行ったものである。沖倉邸では「行かないで」と駆の腕を掴んだ透子であったが、この場面では一切彼を引き留めようとはしない。駆が日の出浜を出ていくことを受け入れているようである。

駆がいなくなることを透子が肯定的に受け止められるとしたら、それは駆の冒険心を理解し、尊重したとしか私には考えられない。「駆が一緒にいたい」という欲望を彼女が諦め、かつ穏やかな気持ちで彼を見送った理由を他にあるというのなら教えてほしいくらいだ。私には何度見返しても理解できなかった。

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透子が駆の冒険心を尊重したとすると、幻想即興曲を聴きながら見た透子の「未来のかけら」の内容は、未知なる場所へ訪れた駆の発見を追体験するものだと考えるのが自然だろう。「唐突な当たり前の孤独」の疑似体験によって駆の不安を実感できたのなら、駆の冒険に対する情熱、そして冒険が彼に与える感動もきっと透子には理解できるはずである。そしてそこで覚えた感動は、駆に教えてもらうまで透子が知らなかったあの木漏れ日に対する感嘆と同質のものであるということにも彼女はきっと気付いたはずである。透子は自分に未知の感動を与えてくれる駆に惹かれたのである。ならば駆の冒険への熱情を尊重し、彼を快く見送るしかないのではないだろうか。

この透子の決断に、不条理への勝利を見ることができる。透子は駆と出会い、様々な経験をし、不条理にも直面した。そして駆もいなくなってしまう。それでも彼女は「駆君がこの町に来てくれてよかった」という。駆と出会えて「よかった」。駆を理解できて「よかった」。「よかった」と思えたならそれは勝利なのである。もちろん「よかった」ことばかりではない。「いいことばかりじゃないわよ。気づくってことは」と高山やなぎが言うように、世の中には知らなければよかったと思うことが確かにある。たとえば、私はふとしたきっかけでとある40代女性競馬評論家がブラジリアンワックス脱毛でパイパンにしていることを知ってしまった。記憶を消したい、と何度願ったことか。それでも、世の中には知って「よかった」と思えることもある。「よくない」ことに直面し傷つき苦しんだとしても「よかった」に向かい続ける。これが「グラスリップ」が描きたかった不条理への勝利なのだ。

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そして深水透子に出会えたことは、駆がやっと掴んだ勝利なのである。「唐突な当たり前の孤独」を恐れ、他人と関わることを避けてきた駆に「よかった」を与えてくれる他者がようやく表れた。どれだけ傷つき苦しんだとしても、透子とのつながりを手放さない限り、彼は「よかった」に辿りつける。これから2人は離れ離れになってしまうが、彼らはきっとまた出会うはずである。カゼミチで偶然ホットコーヒーを同時に頼んだ4人の男女のように。

2-7. 優しいアニメ

グラスリップ」の放映開始から5年。「グラスリップ」を包括的に解説する記事をようやく書くことができた。「グラスリップ」が一部の視聴者からいくら茶化しても構わないおもちゃ扱いをされている現状に率直に言って私は腹を立てている。それはそれとして、このアニメは視聴者に優しいアニメではない、と私は書いていて実感せざるをえなかった。私は解説に前編・後編合わせて3万5000文字超の文量を要求された。それぐらいしなければ、この作品で何が描かれていたかを明瞭に提示できないと思ったからである。これほどの熱量を要求されるのはある意味ではハッピーなことなのかもしれないが、一般的にいえば苦難を強いられたということになるだろう。

グラスリップ」という作品はハイコンテクストな了解を視聴者に必要としすぎるきらいがある。たとえば現在上映中の『天気の子』を例にすると、家出少年の主人公が家出をした経緯が一切描かれず、彼が所持している『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の文庫本だけで説明される。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んだ視聴者は、「コイツもホールデンみたいに周囲にウンザリしてしまったのかな」と笑いながら想像することができるのだが、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んだことがない人間にとっては了解のしようがないことだから、これが視聴者に優しい描写かと言われたらノーと言わざるをえない。「グラスリップ」はこんな表現が全13話ひっきりなしに続くわけだから視聴者泣かせである。作中で随所に現れるメタファーも、『輪るピングドラム』の15話で描かれた「男根(=父なるもの)のメタファー」としての巨大なダビデ像のような、即座に了解できるようなものでもない*13。現にこのアニメの核であるエッシャーの『昼と夜』のメタファーの意味すらも理解できていない、それどころか何らかのメタファーであると認識すらしていない視聴者がたくさんいたのである。制作者たちは頭を抱えたことだろうが、彼らの掲げたハードルが高すぎたということは誰しもが認めざるをえないだろう。

視聴者に優しいアニメとはお世辞にもいえない「グラスリップ」だが、私はこの作品はとても優しいアニメだと思う。その優しさが視聴者全般には向けられてはいない、というだけで。では誰に向けられているのだろうか?それは言いたくても言えない想いを抱え、「何でもない」と我慢をしながら生きている人たちである。彼らが無理に感情を言葉にすることなく他人からの理解を得る内容に私は優しさを感じずにはいられない。直接的な説明を過度に拒む作品の姿勢も、言いたくても言えない気持ちを抱えた人々に深く寄り添うものである。それと引き換えに、私たち視聴者は察することを要求され、深水透子や白崎祐の立場に立たされるのである。多くの視聴者はそれを拒んだが、このアニメを堪能しきるにはこうした要求に応え、「よかった」と思えるよう懸命に理解に努める他になかった。

こうした自分の想いを抑圧するキャラクターに対する優しさは『true tears』から連なるもので、あの作品で最後に主人公の仲上眞一郎が選んだのは、彼を勇気づけた石動乃絵でなく、彼のことを愛していても「愛している」とは言えずに彼の近くで苦しんでいた湯浅比呂美だった。私は湯浅比呂美よりもキャラクターとしては石動乃絵の方が好きだが、比呂美が選ばれる結末でなければ『true tears』を好きにはならなかっただろう。そんな『true tears』を作った西村純二の作品だからこそ「グラスリップ」にも根気よく向き合うことができたのだと思う。結果としては私も透子たちのように「よかった」と思える体験ができた。この冗長な解説をきっかけに「グラスリップ」を見返した人々が、同じように「よかった」と思っていただけるのなら幸いである。

しかしながら「グラスリップ」が描いたものは世の中の空気には合わないのだろうな、とも思う。今は共感の時代である。他者から共感されるには声をあげる必要がある。共感しあうことで、分かり合えるもの同士で連対し、そうではないものたちと断絶する。そして断絶の分だけ連帯は深まる。そういう空気を世の中、とりわけインターネットに私は感じてしまう。対して「グラスリップ」は透子や祐のような孤独とは程遠い人間が、孤独な人間の気持ちに寄り添っていくという内容である。ここでは(自分とは遠く離れた存在に見える)他者を理解することが目的であり、共感はあくまで理解の手段として隷属化されている。相手の立場に立ち、相手に共感できる自分になることで理解に至る。

一方であくまでも共感こそが大事だと考えるなら、わざわざ透子や祐のような鈍感な人間に理解されなくても構わないと思うだろう。その思考の行きつく先は、断絶の肯定である。そうなれば沖倉駆を理解することよりも、彼を断絶し、「沖倉駆を理解したくない」という気持ちを不特定多数と共感し合い、互いに肯定し合うことの方が遥かに「尊い」のである。共感を重んじ断絶を肯定するならば、断絶ー不理解は、私たちの共感に奉仕する形で内面化されていく。こうした考えに至った人たちには断絶を避けるべく理解に努める透子たちの姿に感情移入できないだろうし、下手をすれば彼らの共感の在り方を否定されているように捉えかねられないだろう。ウケるかウケないかの話でいえば、彼らを肯定した方が間違いなくウケたはずである。あるいは、分かりやすく対比したうえで、断絶のない理解を断絶を伴う共感に優越するものして真っ向から描くべきだったかもしれない。いずれにせよ「グラスリップ」は共感さえあれば断絶をしても構わない、という人間の在り方にあまりにも無頓着だった。それがこのアニメの失敗ではないかと私は思う。

今の世の中から見れば、「グラスリップ」は「季節外れ」の出来の悪いファンタジーなのかもしれない。ただ私は今後もこのアニメを見続けるのだろう。これで語りたいことはほとんど語り尽くせたはずである。

*1:ここでいう「かっこわるい」とはどういう意味か、については「分かりやすいグラスリップ」前編参照

*2:駆は「やなぎ」という名前のイメージを「ひっそりとして強か」と称する。自分の本質を見抜かれたような気になったのだろうか。

*3:「やるときはやる女だね」と姉を褒める。

*4:これも余談ではあるが、筆者は昨今の90年代作品アニメ化ムーブメントあるいは男の娘ブームに乗っかって吉住渉先生の『ミントな僕ら』のアニメ化が実現しないかと密かに願っている。

*5:透子はなぜか雪哉はやなぎのことが好きだと思い込んでいる。

*6:アンジャッシュのコントのような透子と雪哉のやりとりは見ものである

*7:この辺の祐の心境の変化くらいはもう少し説明してもよかったのでは、とは思う。

*8:いろいろツッコミどころはあるかもしれないけどね。

*9:よく売る気になったな、とたまげてしまった。

*10:400円

*11:祐は「ヘソ?」と疑問を呈しながら『夢十夜』を読んでいる。作中、「ヘソ」が話題になるのは「第四夜」だけである。

*12:『カモメのジョナサン』は啓蒙的すぎて私はついていけなかった。

*13:即座に了解できる例として適切かどうかは分からないが。