ジョイナス最後の戦い

Join Us Last Stand

アサ芸・細江純子コラム傑作レビュー2018②

いつもより長い「はじめに」

「「私、アイドル」と言いながら可愛くない奴は最悪」とシアトル・マリナーズイチロー・スズキは言った。第2回WBC終了後の記者会見でのコメントである。

私見だが、「私、アイドルと言いながら可愛くない奴」は最悪ではない。ピエロである。

同様に「競馬予想ブログと言いながらシモネタばかりのコラム」もピエロである。あるいは常時ツッコミ待ちの芸人である。その存在だけでギャグが成立していると言っても過言ではない。

ホソジュンコラムの構造は非常にズルい。それ単体でギャグとなるシモネタが、「競馬予想ブログと謡いながら競馬予想が蔑ろにされている」というツッコミどころを副次的に生み出している。ワンアクションで2つの益を手にしているのだ。

ホソジュンコラムの独自性はこの副次的要素に拠るところが大きい。シモネタを売りにしている人はおそらくごまんといる。彼らはシモネタを用いてモラルから逸脱する。しかし純子はシモネタを用いることでモラルだけではなく「競馬予想」という本来的な目的からも逸脱する。やっていることが同じように見えて、深みが全然違うのだ。

「シモネタは心の逃げ場であり、救世主」という純子の価値観*1がホソジュンコラムの「魂」ならば、「いつの間にかシモネタを書くことが目的となり競馬予想が蔑ろにされる本末転倒な構造」はコラムが手に入れた唯一無二の「プロフィール」であり、自他を明確に区別する「ホソジュンコラムらしさ」なのだ。

言い換えれば「ホソジュンコラムらしさ」とは「競馬予想を蔑ろにしてまでシモネタを優先する本末転倒な姿勢」である。本来の目的を逸脱してまでシモネタに興じるバカらしさがツッコミどころとオリジナリティを付与している。

もしも私が内閣総理大臣なら、この「ホソジュンコラムらしさ」の発明を理由に純子に国民栄誉賞を授与するだろう。イチロー細江純子のダブル国民栄誉賞で愛知県民を喜ばせたい。

しかし、本当に哀しいことだが、私は内閣総理大臣ではない。よって私にあげられるものは細江純子オブザイヤーだけである。私にできることは細江純子オブザイヤーに値する作品を選定することだけである。何もあげられないに等しいし、何もできないに等しい。無力だ。

そんな無力な私の前に、純子の新たなマスターピースが姿を見せたのはGW明けのことだった。

「2走前の東京新聞杯(1着)の内容から武豊騎手騎乗リスグラシューに期待!」(2018/05/11)

asageifuzoku.com

内容は定番のヘンタイ息子ネタである。息子のヘンタイっぷりを心配する純子が周囲の人間に「ヘンタイの子はヘンタイ」とバッサリ切られるのも、ホソジュンコラム的予定調和の中にあるように思える。

しかし勘のいい人なら、川端康成の『雪国』を彷彿とさせる冒頭部から「今日は純子は一味違うな」と感じるだろう。こういう文学的な出だしは、エッセイテイストのホソジュンコラムには珍しい。

そして文学を意識した冒頭から一転するように、(1)、(2)、(3)‥‥と箇条書きで連ねられる息子のヘンタイ行動。文学から箇条書きへのシフトが、ディスプレイ越しから異様さを醸し出す。戸惑いながらコラムを読み進める読者に純子は最後の矢を放つ。

もう息子にもムスコにも何も言えない‥‥。言えるのは今週末の予想だけだ。

ホソジュンコラムの愛読者は「言えるのは今週末の予想だけだ。」というフレーズに堪えられないだろう。

先にも述べた通り、ホソジュンコラムの魅力は「競馬予想を蔑ろにしてまでシモネタを優先する本末転倒な姿勢」である。これまで散々シモネタを言い続けてきたその口で「私に言えるのは今週末の予想だけだ」と言い切る。もう笑うしかない。

そして「言えるのは今週末の予想だけだ。」というフレーズの堅く力強い口調も面白い。

ホソジュンコラムの文体の特徴は以下の4つである。

・です・ます調

・多用される体現止め

・形容詞のカタカナ表記(例「あなどれない」→「アナドレナイ」)

・「ー」を「~」に、「~である」を「~でア~ル」と表記

ホソジュンコラムは柔らかく、くだけた文体で書かれている。ですます調を基調とし、「~である」を使うときも「~でア~ル」とカタカナと「~」を用いて堅さを緩和している。

それゆえに「~だ」という表現がホソジュン節の中に混じると非常に浮く。コラムを何回か読んでみれば、「~だ。」という堅い断定口調がいかに定石破りなものなのかが実感できるだろう。この言い回しは、細江純子らしさを著しく欠いている。それだけに強烈な印象が残る。

つまり「もう息子にもムスコにも何も言えない‥‥。言えるのは今週末の予想だけだ。」とは「「ホソジュンコラムらしくない発言」が「ホソジュンコラムらしくない口調で語られる」」という細江純子の極めて高度なギャグなのだ。「らしさ」をあえて捨てて笑いを取る…これは本当に競馬評論家の所業だろうか?

そしてこのギャグの背景には「川端康成じみた冒頭→箇条書き→細江純子らしからぬ強い断定口調」という流れがあることも見逃せない。「ホソジュンコラムらしくない」雰囲気が、こうした文章のスタイルの変化からも補強されているのだ。

競馬評論家が「私に言えるのは週末の予想だけ」と言うだけでギャグになる。そんなギャグが成立するまでの奇跡のような一部始終。ホソジュンコラムを読んでいて思わず語彙を失うほどの衝撃を受けることは珍しくないが、ここまでの凄みを覚えた回はこれまでになかった。思わず「ホソジュンコラムとは何ぞや?」と改めて自分自身に問いたくなるような深い味わいがこの回にはあった。そしてホソジュンコラムが深すぎると、レビューがこんなにもくどくなってしまう。ソーリー読者。そしてサンキュー純子。フォーエバーシモネタ。

まだ2018年は折り返し地点にすら到達していない。時期尚早にも程があるだろう。しかし、あえて言わせてほしい。本作品が細江純子オブザイヤー2018になる、と。