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アサヒ芸能で連載中の「ホソジュンのアソコだけの話」の書籍化、ドラマ化、もしくはアニメ化を願うだけのブログです。

自虐する幾原邦彦———『さらざんまい』感想

『さらざんまい』を最後まで視聴して強く感じたことは、この作品はこれまでの幾原邦彦作品とは違うということだ。

幾原作品では常に愛が問われ続けてきた。そして必ずと言っていいほど、愛に殉じるキャラクターが描かれることとなる。

愛に命を捧げることは尊い。その尊さを私たちが理解できないのであれば、多くの創作物が成立しないだろう。

しかしながら、自己犠牲を尊いと感じる私たちの意識は危ういと言わざるをえない。犠牲とはやむを得ず生ずるもので、なければないに越したことはない。それなのに私たちは犠牲を尊く、甘美なものとして受容してしまう。本来なら避けるべきである喪失に美を感じ、当然のものとして受け止めてしまう。

少なくとも『輪るピングドラム』以降の幾原作品の本旨は相互承認である。幾原が描きたかったものは決して自己犠牲の賛美ではないだろう。ということを踏まえても、幾原作品と自己犠牲を切り離すことはできない。『少女革命ウテナ』から『ユリ熊嵐』まで、どの作品においてもキャラクターの自己犠牲が舞台装置となり物語を最高潮まで押し上げてきたからである。

一方で『さらざんまい』は自己犠牲を「ダサい」と否定する。あまりにもストレートな幾原の自虐に私はたまげてしまった。たまげるほど自虐的な尻子玉奪取アニメ『さらざんまい』を私なりに整理していこうと思う。

自己犠牲の悲劇 

少女革命ウテナ』から『ユリ熊嵐』まで、私たちが目にしてきたのは愛に殉じた者の物語である。また愛を受け取った者のはじまりを描いた物語でもある。

天上ウテナのひたむきな愛は姫宮アンシーの自立を促した。高倉兄弟の存在は消滅してしまったが、高倉陽毬の魂は二人の兄から愛を受けたことを覚えていた。クマとなり百合城銀子と共に排除されることを選んだ椿輝紅羽の姿は、亜依撃子に「透明な嵐」(=同調圧力)から抜け出す勇気を与えた。愛に殉ずることは悲劇であるが、その愛は誰かに届き希望となる。尊い犠牲が残した希望は、喪失の苦みを甘美に包み込む。

しかしながら愛に殉ずることは必ずしも割に合う行為ではない。『少女革命ウテナ』の有栖川樹璃の姉は自分を助ける為に川に飛び込んだ少年の名前を忘れてしまったという。そのことを冷たいと思った樹璃自身も少年の名前を忘れてしまっている。愛に殉じた結果、薄情な人間のために命を捧げることになるのかもしれない。樹璃の姉のエピソードや、亜依撃子以外の「透明な嵐」のメンバーが依然として排除の儀を続けている描写は、ただ能天気に希望だけを描くわけにはいかないという幾原のフェアネスといえるだろう。

『さらざんまい』では上述の描写からさらに踏み込み、「割の合わない自己犠牲」が悲劇として抒情的に描かれる。その役目を担ったのはカワウソに支配されカパゾンビを生み出すことを強いられた警官のレオとマブだ。

マブは「つながりは毒」というカワウソの手にかかり、レオに愛の言葉を語れば心臓が破裂してしまうようにされてしまう。マブはレオと共に生きるため、自分の心を偽りながら生きることを選ぶ。一方マブの事情を知らないレオは、以前のように愛を向けてくれなくなったマブの姿に傷つき、彼を「人形」と罵る。自分のせいで傷つくレオの姿を見て耐えられなくなったマブはカパゾンビとなり、秘密を「漏洩」させ命と引き換えに「愛してる」とレオに伝える。

しかしながらマブの命がけの愛はレオの希望にならなかった。カパゾンビとなって尻子玉を抜かれた者はこの世界から存在を抹消されてしまう。マブの行動は彼の言葉どおり「身勝手な欲望を満た」すだけの行為でしかなかった。結果レオはマブとつながりを持つ機会を永遠に失い、愛する者の存在を忘れてしまった。世界に残ったのは愛ではなく喪失の痛みだけ。互いに傷つけ合ったとしても、レオと共に生きたいとマブは望みつづけるべきだったのだ。

「レオと友に生きたい」という欲望を諦め、命がけの愛に走ったマブの行動は悲劇に転じてしまった。それゆえに「欲望を手放すな」というレオとマブの言葉は重い。彼らの挫折した欲望は、カワウソに抗う中学生トリオを導く光となり、物語は大団円を迎える*1

カエルはカッパに非ず———芥川龍之介『河童』

自己犠牲は幾原の作品を美しく輝かせる星だった。ところが本作品の幾原は、レオとマブを通じて自己犠牲のネガティブな側面を炙り出した。『さらざんまい』は尊い自己犠牲を描き続けた幾原にとって極めて自虐的な作品といえるだろう。自虐性という点においては本作のモチーフになっている芥川龍之介の『河童』に通じるものがあるかもしれない*2

『さらざんまい』には芥川の『河童』を意識しているような描写が垣間見れる。カッパとカワウソが対立している世界観は、芥川の『河童』独自のものだ。また、6話で一稀が自分をこの世から生まれてこなかったことにしようとするシーンは、河童の胎児が母親の胎内で出生するか否かを選ぶエピソードを彷彿させる。

何よりも注視したいのが、カッパとカエルの対比である。1話でケッピ王子は悠に「カエル」と呼ばれて憤怒する。7話においてもケッピは「この街の間違いを正す」と称して吾妻サラと共に街を徘徊し、「これはカッパじゃねえ!」と叫びながら「これはカエルです」と書かれたシールをカエルの置物に貼る。カエルが非カッパ的な存在であることを、これ見よがしにケッピはアピールしている。カエルもまたカワウソと同様にカッパと対比した存在なのだろう。カッパが欲望を未来につなげる者、カワウソがつながりを絶とうとする者だとすれば、カエルは一体なにを表しているのだろう。

芥川の『河童』においてもカエルが関係する場面がある。作中ではなんとカエル呼ばわりされて自殺をしてしまった河童の話が出てくる。河童たちは非常に繊細で、批難や侮辱を受けると心筋梗塞になったり自殺を試みてしまうような脆弱な精神を抱えている。そして彼ら河童にとってカエル呼ばわりされることは、人間で言えば人非人扱いされるようものだという。

芥川の文脈を引き継げば、カエルというのは非カッパであり、死を想起させる要素を含んだものといえるだろう。

カエルの喪失———村上春樹『かえるくん、東京を救う』

また幾原邦彦作品でカエルといえば『かえるくん、東京を救う』だろう。これは村上春樹阪神大震災を受けて書いた短編のタイトル。そして『輪るピングドラム』9話にて、高倉陽毬が探している本の題名でもある。作中、カエルの「かえるくん」は、東京の地下に棲み大地震を起こそうとしている「みみずくん」と戦う。戦って傷ついた「かえるくん」は地震を阻止することはできたものの、命を落としてしまう*3

『かえるくん、東京を救う』は有栖川樹璃の姉を助けた少年のように、報われず忘れ去られていくような存在を描いた作品である。「かえるくん」は片桐という冴えない独身男性の前に姿を現し、彼に「自分を応援してほしい」と頼み込む。片桐は人がやりたがらない仕事を務め、両親の代わりに弟と妹を育てながらも、周囲から軽んじられている男である。彼が死んでも誰も気にも留めないだろうし、その存在もすぐに忘れ去られていくだろう。一方「かえるくん」も片桐の協力を得なければ、独りで「みみずくん」と戦うことになる。彼もまた人知れず東京の地下に埋もれていく運命を背負っていたはずだった。独り消えゆくだけの存在であった「かえるくん」と片桐は、お互い承認し合える相手に出会えたのである。

「かえるくん」と片桐の関係は『輪るピングドラム』の高倉3兄弟の結末を示唆している。血の繋がらない冠葉・晶馬・陽毬の3人は、互いの「りんご=(生命)」を相手に分け与えるという相互承認でつながった。一方、当作品のラスボス・渡瀬槇悧は世界の消滅を企てる。「かえるくん」と「みみずくん」のように両者は東京の地下で対峙し、冠葉と晶馬は自分の存在と引き換えに、人と人が承認し合える世界を守る。

高倉兄弟の犠牲により世界は守られた。しかしながら冠葉と晶馬は自分の存在を守れず、唯物論的な意味では誰ともつながれなくなった。この点では高倉兄弟や「かえるくん」はマブと変わらない。(本意ではないにしても)他者とつながりながら生きることに失敗してしまったのである。

他者とつながり生きたいという欲望を未来につなげるカッパの立場からはカエルを肯定できない。カエルとは自死を受け入れてしまう精神のメタファーなのである。

見返りを求める愛

本作の主人公・矢逆一稀はカエルの精神を持つ少年だ。彼は矢逆夫妻の実の息子ではない。そればかりか自分のせいで血のつながらない弟・春河に障害を負わせてしまった。罰として自分の好きなサッカーを諦め、家族としてではなくアイドル・吾妻サラとして春河とつながることを自らに課し、終いには春河を助けるために命を捧げようとする。このように一稀は容易く自分を犠牲してしまうキャラクターなのだ。

もう一人の主人公・久慈悠も兄・誓の為に罪を犯し、サッカー選手になる夢を諦めた。彼もまた容易く自分を犠牲にしてしまえる少年である。それでも彼は兄と共に生きる未来だけは諦めていない。ところが誓の死により「兄と共に生きたい」という欲望を満たせなくなってしまった。悠は自暴自棄に陥り、カワウソに取り込まれ全てのつながりを絶とうとする。

一稀と悠は似た者同士である。もしも『さらざんまい』がこの二人が承認し合うだけの作品だったら、レオとマブのような、もしくはこれまでのイクニ作品と同じような帰結を招いていたのかもしれない。自分を平気で損ねてしまえる者同士だから、相手に生きて欲しいと願えても自分は死んでもいいと思ってしまうだろう。だからこそ「自己犠牲なんてダセえ真似すんな」と彼らに呼びかける陣内燕太の存在は大きい。

燕太は自分を承認してくれた一稀に尽くす。彼の愛は決して無償の愛ではない。燕太は一稀に「ゴールデンコンビ復活」という見返りを求めてる。「見返りを求める愛」は何かと創作物で槍玉にされがちだ。事実、本作品でも燕太は一稀に優しくされる遥に嫉妬するあまり、「銀の皿」を隠してしまうという醜態を見せてしまう。

しかしながら相手に見返りを求める燕太だからこそ、自罰的な一稀や破滅的な悠とは違う道を選ぶことができる。見返りを受けるには双方がいなければ成り立たない。相手も自分も生きているからこそ、愛に見返りを求めることができる。一方、自己犠牲は見返りを求められない愛である。それゆえに燕太は自己犠牲を拒絶する。愛に見返りを求めるような奴だからこそ、自分も相手も笑っていられる未来を一稀たちに示すことができる。

一稀の自己犠牲の本質は最終回まで変わらない*4。一稀はつながりを絶つべく放たれた銃弾から過去の悠を身を挺して庇おうとする。その銃弾を一稀から反らそうと悠に飛び掛かったのは他ならない燕太である。孤独な他者に手を差し伸べる優しさを持ちながら、自分を蔑ろにしてしまう一稀。そんな一稀に共に生きることを強く望む燕太。この二人は紛うことなきゴールデンコンビなのである。

少年院から浅草に戻ってきた悠が、ゴールデンコンビが待つ河に飛び込んでいくラストシーン(入水じゃないのよ)はビターな喪失を甘い希望で彩ったこれまでの幾原作品とは違う余韻を味合わせるものである。悠は罪を重ねた挙句、兄を喪ってしまった。彼の人生は終わっている。「それがどうした!」である。3人は欲望のエネルギーに溢れている。他者を承認する優しさと共に生きようとする強さが悠の門出を祝福する。これこそが幾原が自虐的な本作を通じて描き出した「生存戦略」なのだ。

最後に

私は幾原邦彦のメタファーとギャグを散りばめる作風が好きだ。しかし、彼の作品が描こうとする「生存戦略」にどこか納得しきれないものがあった。その感覚は年々自分の中で強まっていく。

私は創作物で描かれる自己犠牲に心を動かされながらも、「これでいいのか?」と齢を重ねるにつれて思うようになってきた。私たちが喜んでいるのは、私たちではない誰かの自己犠牲である。それを甘美に味わっていいのだろうか?

そういう想いに駆られる機会が増えたからこそ、自己犠牲を否定する『さらざんまい』に驚きながらも安心を覚えた。

これまでの幾原は死者を通じて愛を描きだしていた。天上ウテナも、高倉兄弟も、椿輝紅羽も死をもって世界に愛を示している。しかしながら幾原も私たちも生きている。なのに死者に「この世には愛がある」と叫ばせていた。そこにちぐはぐさがあったのではないか。ならば生者を通して「この世には愛があるから、一緒に生きようぜ」というメッセージを伝えるのが自然だったのではないだろうか。

少女革命ウテナ』よりも、『輪るピングドラム』よりも、『ユリ熊嵐』よりも、『さらざんまい』の方が説得力があるように私は思える。少なくとも今の私には。これからの私にとってもそうであってほしい。

*1:そしてレオとマブはとくに説明もなく復活する。まるで『キン肉マン』の最終回のように。

*2:芥川は自分を含むあらゆるものに対する憎悪を『河童』に書き表したという

*3:その描写はおぞましいほどグロテスクだ

*4:終盤の一稀は「かえる」と書かれたTシャツを着ている