ジョイナス最後の戦い

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『天気の子』感想

 『魔法少女まどかマギカ』の放映当時のことを思い出した。「ワルプルギスの夜」が天災をもたらそうとするクライマックスと東日本大震災が不幸にも重なってしまい、放送の中断を余儀なくされたことを。

 インターバルを経て『まどかマギカ』が導いた結末は、今としては狂気であったとしか思えない。魔法少女の願いが世に災厄をもたらす。それを知った鹿目まどかは、願うという行為を肯定するために人身御供となることを選ぶ。まどかは魔法少女が魔女になるという理不尽なエラーを修正することこそ成功したが、今度は魔女の代わりに魔獣が表れ、依然として狂気を抱えたまま世界は歯車を回し続ける。

 今思えば、震災直後にこんな結末のアニメを喜んで受け入れたこと自体が狂気だった。そう思ってもなお、あのアニメを受け入れたことは合理的な選択だったといえる。私たちは結局のところ生きている限り狂気を抱えた世界から逃げられないのだ。そんな中で、願うこと、欲望をもって生きることを否定されたら狂気にのみこまれてしまう。たとえそれが狂気を生み出す行為だったとしても、誰かに肯定してほしかった。たとえそれで犠牲を生じたとしても、誰かに肯定してもらわずにはいられなかったのだ。

 そして、この世界は狂気を孕んでいるとしか思えない悲惨な出来事が、この7月に起きてしまった。

 『天気の子』を見てまず最初に思ったことは、これも狂気の作品だということだ。『天気の子』では『君の名は。』では描かれなかった都会の姿が描かれる。ネットカフェ、ラブホテル、風俗店。そして作中で唐突に表れた騒々しいバニラトラックに、ほとんどの観客が度肝を抜かれ、苦笑しただろう。しかしヒロイン・陽菜が生活に困り、風俗店で働く寸前だったということが露呈すると、苦笑いは苦みを帯びる。その苦みは私たちは世界が狂気を孕んでいることを否応になく実感させる。

 帆高は東京に晴れをもたらすために、陽菜が消えたという。帆高が空から陽菜を取り戻した結果、東京は水没する。一般的にいえば、これは狂人の妄想と違わない。私たちは世界の存亡にこんな形で関わることはできないのである。

 ところが私たちは、現に社会や他者を損ねることができる。帆高は銃を拾い、風俗店員や警官たちに銃口を向ける。引き金も抜く。別に天気を操らなくても、世の狂気を体現させることが私たちにはできる。貧しい女性に売春を唆したり、異常気象を鎮める為に人身御供を求めてきたのは、この世界に属する私たちなのである。

 しかしながら、私たちが世界の狂気を体現しうる存在であることをストレートに受け入れるのは、まだ難しいのではないのだろうか。世の不条理に対し、党派に分かれて責任をなすりつけあう私たちには、己の狂気を直視するのはまだ早いのではないのだろうか。それゆえに、この『天気の子』という作品を歓迎したいと思う。この物語は生きる為に、幸せの為に、狂気の想像力の中で多くの人々を損ねる寓話である。私たちにはセカイの、そして私たちの狂気を寓話化することが令和になっても必要なのだ。

 ただ、こうした寓話をボーイ・ミーツ・ガール以外の形で書けないものかと、そんな小言を言ってやりたい気がないわけでもないわけでもない。しかし、そんなことを言うと、そんなこと言いながら典型的ボーイ・ミーツ・ガールである『グラスリップ』という作品を見続ける私はバカですと白状しているようなものだから、まあバカでいいか。