ジョイナス最後の戦い

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『天気の子』感想(再び)

再び

joinus-fantotomoni.hatenablog.com

先週『天気の子』を再び見に行った。感想も再び。

同じ映画を複数回見直すことは滅多にない。覚えている限りでは『ニュー・シネマ・パラダイス』、『天空の城ラピュタ』、『千と千尋の神隠し』、そして『カードキャプターさくら 封印されしカード』くらいだろうか。

 中指を突き立てた相手は

帆高と真に対立する価値観があるんだとすれば、それは社会の常識や最大多数の幸福じゃないか。結局この物語は、帆高と社会全体が対立する話なのではないか。それに気づけたことが、今回の物語制作の中でのブレイクスルーだった気がします。(パンフレット掲載の監督インタビューより)

『天気の子』は誰がどう見ても「帆高と社会全体が対立する物語」である。世界と少女を天秤にかけ、少女を選択するということは言うまでもなく「最大多数の幸福」に背くものであり、さらに帆高はその過程で数々の非常識な行いをする。また彼と社会の対立は、対人関係における衝突としても描かれる。家族、警察は当然ながら、須賀や陽菜を勧誘した風俗のスカウトマンといったアウトローな存在も、帆高と対立する社会の立派な一部である。

しかしながら、陽菜の視点で『天気の子』を見てみるとこの作品が「個人と社会との対立」を描いた作品であると単純に言いきれなくなる。ということに、2回目の視聴で私は気付いた。陽菜も社会と対立する存在である。行政による保護を拒絶し、帆高と凪との生活を守るため水没しつつある東京で逃避行する。その一方で、彼女は天気の巫女の役目、すなわち荒れた天気を治めるための生贄となる運命を背負わされることとなる。逃避行の最中、陽菜の身体はだんだんと透明になっていく。すると陽菜は、帆高たちと引き離されたくないと逃げ回っていたにもかかわらず、生贄となることを受け入れ空に消えてしまう。

陽菜は生贄になることを選んだが、実は誰も陽菜に生贄になることを直接求めてはいない、というのがこの作品のミソである。もちろん須賀が言うように「人柱が一人犠牲になれば晴れるなら、もとの天気になるというなら歓迎だ」というのが社会の本音なのかもしれない。しかしながら、陽菜に「犠牲になれ」と直接求める人間は劇中存在しない。彼女を追いかけまわす警察や家庭相談所の職員は、未成年を保護するという至極まっとうな理由で動いているにすぎない。つまる話、『天気の子』における社会と個人との対立とは強行的な社会保障と頑なな対象当事者の綱引きでしかなく、陽菜の自己犠牲に関して言えば社会は無垢な受益者でしかない。はっきりいえば、陽菜たちと社会の対立は、彼女の自己犠牲にほとんど関係がないのだ。

では何が陽菜に自己犠牲を選ばせたのだろうか?私は社会と個人を仲介する「物語」が彼女を駆り立ててしまったのではないかと思う。

『天気の子』は、「物語」に振り回される人々を描いた作品と見ることができる。そもそもの発端となった帆高の家出は『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に影響されたものである。そして須賀と出会い、帆高はオカルトという「物語」を記事としてまとめ上げる仕事を手伝わされることとなる。やがて、須賀たちは気象神社で語られた「天気の巫女」の伝説に辿りつく。「天気の巫女」の運命を知り、身体が透明化していく現実に直面した陽菜は、運命を受け入れてしまう。

キャッチャー・イン・ザ・ライ』が帆高を社会と対立するように駆り立て、「天気の巫女」の伝説が陽菜を自己犠牲に駆り立てる。媒体としての「物語」は中立的である。中立的であるゆえに、個人、社会のどちらにも癒着しうる。

「天気の巫女」の伝説は、少女に死の運命を示す。提示された死は、私たちを実存的な不安に駆り立てる。いつか死んでしまう私たちの人生に、意味はあるのだろうか。どうせ死ぬ運命にあるのなら、私たちはなぜ生まれてきたのだろう?

生に意味を見出すことは、神話、宗教、哲学とあらゆる形で長い歴史の中で絶えず人間が追求してきた試みだ。物語の世界においても、王道的な展開として数々の作品に見受けられる。

たとえば『ONE PIECE』のポートガス・D・エースを思い浮かべてほしい。彼の自滅的な死を嘲笑する向きがネットに存在するものの、世間的には彼の死は感動のシーンとして受け入れられている。血のつながりのない「父」のために怒り、血のつながらない「弟」を庇って死ぬという顛末が、エースの充足した生の証明であるということに大方の受け手は納得しているのだ。

昨年話題となった『ボヘミアン・ラプソディー』も、QUEENの楽曲とラミ・マレックの演技だけが大ヒットの要因ではない。死の宣告を受けたフレディ・マーキュリーが、退廃的な状況から脱出し、仲間や家族との絆を再確認し、エンターテイナーとして死を迎えるという筋書きに、多くの人間の魂が揺さぶられたのである。

なんのために生まれて

なにをして生きるのか

こたえられないなんて

そんなのはいやだ

幼児向きのアニメですら、生きる意味が見つからないことへの不安をストレートに表現している。生に意味を見出すということが、眩しく尊い勝利であることを疑う人間はきっといないだろう。「生の意義を求める」という「物語」に自己を投企しなければ、私たちは死の虚無に飲み込まれてしまう。

そしてこの「物語」は、エースやフレディの例のように、他人とのつながりの中に人生の意義を見出そうという帰結にたどり着きやすい。しかしながらつながりというのは多種多様である。陽菜は当初は凪との家族関係を大切にしていた。しかし帆高との出会いにより、彼女の世界は広がっていく。「晴れ女ビジネス」を通じて、陽菜は自身が社会という広いつながりに属していることを自覚する。狭いつながりと広いつながり。どちらを大事にすべきなのだろうか。「最大多数の幸福」は、価値観の揺らぎの中でそれらしい答えとして輝きを放つ。こうして「物語」は「最大多数の幸福」を個人に浸透させるパイプへと変貌していくのである。

「最大多数の幸福」は人生の意義という空欄に適切なピースを提示してくれるかもしれない。しかしながら『天気の子』においては、(帆高や凪を含んだ)人々の笑顔のために犠牲になることを選んだ陽菜は、決して生きるの意味を見出した勝者ではない。彼女は社会を拒んでまでも守ろうとした帆高と凪とのつながりを、意義のある死という幻想に捉われ、刹那的なヒロイズムに身を任せて投げ捨ててしまった失敗者である。そのことを空の上で涙を流す彼女の姿から私たちは思い知らされる。彼女を駆り立てた「物語」は「最大多数の幸福」と少女を結びつける媒体にすぎず、約束された勝利というまやかしを与えたにすぎなかったのだ。

陽菜は家庭相談所の職員や警察を拒んできた。しかし「最大多数の幸福」と癒着した「物語」を拒むことができなかった。『天気の子』が狂うほど眩しい太陽によって照らし合わせたのは、社会の息苦しさというよりは、こうした「物語」の孕んだ邪性ではないだろうか。つまる話、生に意味を見出す「物語」に「最大多数の幸福」を憑依させる魔力があることを示したのが『天気の子』だったのではないかと私は思うのだ。

新海誠曰く、「『君の名は。』に怒った人たちが、もっと怒ってしまうような物語」が『天気の子』の最初のイメージだったという。『君の名は。』に多くの批判が飛び交ったが、中でも「過去の災害をなかったことにする許しがたい物語」という批判に新海は目をつけたようだ。*1すなわち、『君の名は。』に怒った人が喜ぶ物語———犠牲に意味を見出そうとする物語を、狂犬・森嶋帆高がぶち壊すという挑発的な企みが『天気の子』なのである。その中指は、社会ではなく、私たちが愛し消費する物語に向けられている。そういうことを感じさせられた二度目の視聴だった。

齢31の独身男性を篭絡した天野陽菜さん

なーんて畏まった感想を書いてみたが、実際は上映中「ねぇ、今から晴れるよ」の場面から「陽菜さんすこ」以外の感情はほとんどなかった。終始陽菜さんすこすこモードで見ていたのだ。

ここ数年、二次元のキャラに萌えることに関して尋常ではないほどの警戒心を抱きながら生きていた私だったが、陽菜さんには敵わなかった。独りよがりな帆高で銃をぶっ放す帆高を「気持ち悪い」と拒絶した数分後に、「痛い?」と心配してくる陽菜さんは、異性からの承認に飢えているアラサー独身男性には眩しすぎたのでア~ル。URでア~ル。

吉岡里帆

『天気の子』の上映前に長井龍雪×岡田マリーの劇場アニメ『空の青さを知る人よ』の予告を見たのだが、どうやら吉岡里帆が声優で出演するらしいのでア~ル。

吉岡里帆といえば、ゴシップ雑誌で度々「水着になれ」「脱げ」と要求されているわけでア~ル。一方で、声優というのは肌を晒すどころか声以外の全てを覆い隠す仕事なのでア~ル。すなわち、これは吉岡里帆からの挑発なのでア~ル。

吉岡里帆の水着を再び見るためには、「水着になれ」「脱げ」と要求するのではなく、「革命を起こそう」とか言ってその気にさせるのが一番だと思うのでア~ル。たとえば、吉岡里帆をアニメ映画に声優としてキャストし、最後のシーンでRADWIMPSの楽曲に併せてヒロインが服を脱ぎ捨てると実写になり、あとはエンドロールまで吉岡里帆の水着グラビアといったような作品を企画すれば、絶対に喰いついていてくるんじゃないかと思うのでア~ル。

*1:私もそんなことを言っていた。