7:おねがい☆ツインズ(2003)
昨年、旧制松本高校を訪れた。「おねがい☆ティーチャー」、そしてその続編「おねがい☆ツインズ」で主人公たちが通う木崎高校のモデルである。かれこれ15年越しの聖地巡礼である。「縄文おやき」も食べた。いつか木崎湖周辺にも行きたい。
今ではありきたりになってしまった「ご当地アニメ」だが、アニメと現実が地続きになっていることに当時の私は深い衝撃を受けたものだった。
さて、公平に見れば「おねがい☆ティーチャー」の方が「おねがい☆ツインズ」よりも名作だと思う。(都会から見て)時が停まったような地方の風景と宇宙人の組み合わせが「停滞/加速」という作品のテーマにマッチしていた。20年近く前の作品になってしまうが、もっと顧みられるべきアニメだと思う。
舞台と物語のシナジーという点で言えば続編の「おねがい☆ツインズ」は正直物足りない。北アルプスの麓の田舎町は、未成年の男女の危うい共同生活をご都合主義的に許容するユートピアでしかなく、主人公の神城麻郁と彼の妹と名乗る宮藤深衣奈・小野寺樺恋との関係も、前作の桂とみずほの関係が森野苺や銀河連盟の介入で破断しかかったことと比べれば周囲からの干渉も弱くどこか緊張感に乏しかった印象を受ける。
ただどちらが好きか、と聞かれれば私は迷わず「おねがい☆ツインズ」と答える。このアニメの良さは不干渉主義だった麻郁が自分と同じ境遇の2人のヒロインに対して心を動かされ男気を見せていくところにある。「「他人かもしれない」が「肉親かもしれない」以上見捨てられない」というヒロイズムを麻郁は示す。これはそれぞれ絶望を抱えた彼女たちが、麻郁に惚れてしまう理由としては十分すぎるくらいで、あとは彼らが年相応に恋をし、微妙な関係性の中で葛藤する姿を描くだけで足りてしまう。
私論だが、いいラブコメはヒロイン以上に主人公が魅力的に思えるものだと思う。私たちは主人公のことを好きだから、主人公のことが好きなヒロインたちを好きになれる。というか特定のヒロインに肩入れしすぎるラブコメの読み方って危険ではないか、と思う。1歩引いたところからニヤニヤ見るくらいが丁度いいラブコメの見方だと自分は考える。
とにかく、魅力的な主人公が恋愛をすればそれで十分なのだ。そう思わせられるのが「おねがい☆ツインズ」という作品だ。
イチオシの回:「ぬけがけしないで」(第9話)
おねがいシリーズ*1恒例の軽井沢回。 3人とも他の2人とはぐれてしまうが、軽井沢の真ん中で麻郁が「俺はここにいるぞ」と叫んで事なきを得る。馬岱じゃん。
人の行き交う通りで急に叫び出す麻郁はとても恥ずかしい。しかしヒロイン2人がそんな麻郁の下に走っていく姿はまさに剥き出しの青春。走って、転んで、2人仲良くパンツまで剥き出しになるというヲチもつく。アニメのキャラクターには恥ずかしいことをとことんしてほしいと私は思う。だってアニメだもの。