ジョイナスのカラオケBOX

アサヒ芸能で連載中の「ホソジュンのアソコだけの話」の書籍化、ドラマ化、もしくはアニメ化を願うだけのブログです。

[ジョイナス(Chimpo_Joinus)が選ぶアニメ・オールタイムベスト10]5位:氷菓

5:氷菓(2012)

原作の「古典部シリーズ」はビターな印象を受けるエピソードが少なくない。たとえば原作の「正体見たり」はきょうだいに憧れる千反田えるが善名姉妹の良好ではない関係にショックを受ける場面で締め括られる。「手作りチョコレート事件」においても伊原摩耶花がえるを利用したという疑惑が提示されて終わる。

一方のアニメ版は原作と比してキャラクターを悪く描かないように配慮がされている。上記のエピソードは後味が悪くならないように改変され、「女帝」入須冬美に至っては出番が追加され、仮面の下の素顔が伺えるようフォローされている。

私はどちらかといえば原作のテイストの方が好きだ。極端なことをいえば人間をできるだけ(ほどよく)悪く描いてほしいと思っている。

古典部シリーズ」は折木奉太郎の一人称で描かれていて、事件を通して奉太郎の不干渉主義が問われる。「省エネ」をモットーに生きていた奉太郎は、人付き合いを簡略化してきたせいか他人への関心がいまいち薄い。そんな不干渉的な自分と向き合い、その修正を余儀なくされていくのがこのシリーズの筋である。

とはいえデタッチメントからコミットメントに転向してすんなりハッピーになれるのなら面白みがない。人間の嫌な部分を描いて不干渉主義にも理があるように思わせたほうが、奉太郎の揺れ動く心理を読み進めていくうえでより緊張感が味わえるだろう。そこがビターな原作の魅力だと自分は考える。

そう思うとアニメ「氷菓」は甘々な印象だが、これはこれで良い。何が良いかと言えば千反田えるが可愛いのが良い。京都アニメーションが描く千反田えるは悪魔的に可愛い。そしてえるの悪魔的な可愛さにたじろぐ折木奉太郎もまた可愛い。

原作のビターさは後退し、表に出てくるのは青春の甘さ。1話でえるの可愛さと好奇心に振り回されることを保留しようと試みた奉太郎が、丸1年保留を続けてやっと自分の想いを自覚する。拗らせた童貞の青春への抵抗も、コーヒーカップの底に沈んだ砂糖くらい甘い。

原作の毒を抜くような改変は、甘い青春には人の恋路を邪魔するような後味の悪いエピソードは野暮だということなのだろう。原作がデタッチメントとコミットメントの絶え間ない綱引きだとすれば、アニメ版は薔薇色が勝つように仕組まれた出来レースだ。出来レースと分かってしまうと萎えてしまうものだが、知ってもなお「出来レースでもいいか」と思えてしまうのは千反田える嬢の可愛さ故だろう。奉太郎と共にえるの可愛さに屈しよう。それもきっと悪くない。

イチオシの回:「遠回りする雛」(22話)

「遠回りする雛」というのはメタファーだ。千反田えるの宿命を示すものであり、折木奉太郎の恋を示すものでもある。

原作ではラストシーンは千反田家の庭先での出来事となっている。えるは千反田家と千反田家を囲む地域一帯を指し「ここがわたしの場所です」と奉太郎に告げる。作中で描かれた生き雛の行進のように、千反田えるはどのような進路をとっても「千反田家の跡取り」というゴールが決まっている。こうした彼女の宿命に則ったロケーションがなされているといえよう。

一方アニメでは狂い咲く桜の下に舞台が移っている。生き雛の行列が歩く間、奉太郎が見たくても見ることができなかった桜の下の千反田えるが、奉太郎に微笑みかける。通行禁止になった長久橋が、奉太郎にこれ以上の「迂回」は不可能であることを示す。もう恋から逃げることはできない。奉太郎の心情に沿ったとても粋な演出だ。

舞台が変わるだけで印象がガラッと変わる。それを思い知らされる瞬間が自分はとても好きだ。原作では悲壮感に満ちた「わたしはここを最高に美しいとは思いません」というえるの発言も、狂い咲く桜の下では「でもあなたは美しいと思っているでしょう?」という反語となる。どちらがいいかと聞かれれば、この場面に関しては原作よりもアニメの方が遥かに好きだ。

京アニ解釈の「遠回りする雛」を見ると、どうしても「二人の距離の概算」以降のメランコリーな古典部シリーズがアニメでどう描かれるかが気になってしまう。千反田えるの為に走る折木奉太郎が、どのように描かれるか興味が尽きない。

でももう叶わぬ夢だ。「全ては主観性を失い、歴史的遠近法の彼方で古典になってしまう」というが、客体化されぬ願望は胸の内からいつか消えていく。古典すらなれない。