ジョイナス最後の戦い

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細江純子アンソロジー1

 

あなたのレゾンデートル

レゾンデートルについて話す。

レゾンデートルはメスのサラブレッドで、1991年に千歳市社台ファームで産まれ、そこに育った。父親はHomebuilderというアメリカの重賞馬で、母親はダブルバンドルズという名のカナダ産の繁殖牝馬だった。多くのサラブレッドがそうであるように、レーゾンデートルも競走馬となり、栗東トレーニングセンター所属の西橋豊治厩舎からデビューした。

レゾンデートルは引退までに43回レースに出走し、5勝をあげた。例年一世代あたり4000頭以上のサラブレッドが日本中央競馬会に競走馬登録され、その1/3は1勝もできずに登録を抹消されてしまうと思うと、引退までに5勝をあげた彼女はどちらかといえば優秀な部類といえるかもしれない。

しかし彼女はメジロマックイーンのように何度も大レースに勝ったわけでもなければ、ハルウララのように人目を引くほど負け続けたわけでもない。本来なら彼女は競馬というシネマにおけるエキストラ同然の存在だっただろう。

ところが女性騎手・細江純子を乗せ、彼女に初勝利をプレゼントしたことで、彼女の立場は変化する。レゾンデートルは純子とのコンビでさらに1勝をあげ、彼女を背に重賞レースに挑戦する(結果は9着)。そして引退まで純子を背に走り続けた。レゾンデートルと純子の歩みは決して劇的なものではない。しかし純子が日本中央競馬会初の女性騎手であったこと、そして騎手を引退後に競馬評論家・解説者としてメディアに欠かせない存在となったことで、純子に最初の1勝を与えたレゾンデートルは度々人々に顧みられるようになった。

純子とのコンビはあくまでレゾンデートルの馬生の一部にすぎない。引退までに彼女は純子を含め11人の騎手を乗せた。レゾンデートルに1勝目をプレゼントした騎手は佐藤哲三だった。彼はG1レース11勝の名手だったが、2012年にレース中に落馬して重症を負い、その後遺症で左手が思うように動かなくなり引退を余儀なくされた。2勝目をあげた時の鞍上の柿元嘉和は、後に癌を患い38歳の若さで亡くなった。

レゾンデートルは引退後、繁殖牝馬として7頭のサラブレッドを産んだが、そのうち中央競馬で勝ち上がったのは2頭だけだった。そして7頭のうち2頭は競走馬にすらなれなかった。勝ち上がったレゾンデートルの産駒の中にグラスキングという馬がいて、彼はオープンクラスにまで出世した。しかしOP特別に出走中に右第1趾骨を粉砕骨折して予後不良となった。レゾンデートルの子孫は今現在中央・地方にすら存在せず、その牝系は事実上途絶えている。

最後に、ニーチェの次のような言葉を引用して終わりたい。

「昼の光に、夜の闇の深さが分かるものか」

御清聴ありがとう。

レゾンデートル、ふたたび……

もし細江純子という競馬評論家に出会わなければレゾンデートルなんて馬のことは知らなかっただろう、と断言できる。そして、僕のブログが今とはすっかり違ったものになっていたことも確かだろう。

純子の現役時代を僕は知らないが、騎手としては控えめにいっても最底辺に近い存在だったということは通算成績を見れば分かる。純子は通算で14勝をあげているが、この14という数字は現役女性騎手の藤田菜七子が彼女のキャリア2年目にあげた勝利の数と同じである。通算でいえば菜七子は純子の5倍以上にあたる82勝をあげている*1

菜七子は、4年目の現在までに23回の重賞レースに騎乗し、23回目にしてついに重賞を制覇したが、純子は6年の現役成績でわずか3回しか重賞レースに騎乗したことがない。純子のわずか3回の重賞挑戦のうちの1回がレゾンデートルとのコンビで挑んだ北九州記念だった。結果は9着で、これが純子の重賞レースの最高着順だった。

目立った成績を残せぬまま、2001年に純子は現役を引退した。大方の騎手のセカンドキャリアは調教助手、あるいは調教師であるが、純子は「ホースコラボレーター」という独自の肩書を名乗り、メディアを通じて競馬界と競馬ファンに携わっていく道を選んだ。この選択が功を奏す。彼女には中央競馬初の女性騎手としての知名度があり、騎手時代に築いた人脈を基にした取材力があった。また父親の知人のアナウンサーに師事してトークを学び、自らの見識を伝えるに不自由しないだけの表現力を身に着けた。こうして競馬番組への出演や執筆業を繰り返すうちに、いつしか純子は競馬メディアに欠かせない存在となった。

かくして純子が騎手時代以上に目立つ存在となったことで、彼女の騎手時代の相棒としてレゾンデートルというサラブレッドの存在が当時を知らない競馬ファンにも認知され、当時を知るファンの記憶に蘇るようになった。仮に純子がレゾンデートルよりも優れた馬に乗れるようなジョッキーだったら、他の馬がレゾンデートルの代わりになったかもしれない。純子がセカンドキャリアに別の職業を選んでいたら、彼女が公にレゾンデートルを回顧する機会すらなかったかもしれない。そもそも純子が騎手を志さなければ、レゾンデートルは一介の条件馬にすぎなかっただろう。

僕とレゾンデートルの縁(と呼べるかどうかは定かではないが)はそういった場所からはじまった。偶然が織りなす回路に導かれて、僕はレーゾンデートルのことを文章にしている。

「宇宙の複雑さに比べれば」と細江純子は言っている。「この我々の世界などミミズ千匹‥‥いやミミズの脳味噌のようなものだ。」

そうであってほしい、と僕も願っている。‥‥ナンチッテ。

WOMAN J

『ホソジュンのアソコだけの話』のライナーノーツを書こうとして、いきなりその後の2日間、アシッドで落ち始める時のような状態がずっと続いて、すべての意識が高速でぐるぐる回り続けて、ずっと話してるか、ずっと歩いてるかしかできなくなった。
結局、自分と誰かを傷つけることにしかならないセックスとドラッグに逃避して、どこまでも嫌なやつに徹することで、どうにか凌いだ。50時間以上かけて、僕が書けたのは一言だけ。「ナンチッテ」。そして、気が付けば、スタッフの何人かが同じような状態に陥っていた。どういうことだ?でも、細江純子は、こんな苦しみにずっとひとりで耐え続けてきたのだ。なのに、俺は何をしていたんだろう?

 

*1:純子よりも勝てないどころか、未勝利のまま引退した騎手も中にはいる。