ジョイナス最後の戦い

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Dear My Friend / 安達としまむら

Dear My Friend

石川さゆりは「天城越え」を今年歌うらしい。紅白の話だ。

私はずっと「天城越え」のことを「愛する男を殺したいくらい好きな情緒不安定な女性の曲」だと思っていた。そんな曲を年末に隔年で聴かせるNHKは狂っているとすら思っていた。

実のところ「天城越え」は夫の不倫を知った妻の曲らしい。伊豆・天城峠を越える旅路を、彼女の夫婦の危機を乗り越えていこうという心情に重ね合わせているそうだ。つい最近知って、なるほど、と唸ってしまった。

このように当時は歌詞を大して気にしなかったが、後々聴き直してみると「なんだばしゃぁぁぁぁ」と言いたくなるような曲がある。Every Litlle Thingの「Dear My Friend」も私にとってそんなレパートリーの中の1つだ。


「Dear My Friend 」MUSIC VIDEO / Every Little Thing

Dear My Friend」はELT出世作と呼ぶべき楽曲である。アラサー以上の世代の人間なら「いつか 最高の自分に 生まれ変われる日が来るよ」というフレーズにきっと耳馴染みがあるだろう。たしかエステのCMソングだったはず。

タイトルと上述のフレーズ以外は気に留めていなかったので、なんとなく自分はこの曲は友達を励ます歌だとずっと思っていた。しかしながら歌詞をよくよく見ていると男女の関係を歌っている曲だということに気付く。ざっくりいえば「やっぱりあなたのこと恋愛対象として意識できないから、ただの友達に戻ろう」と男友達から恋人関係になった彼氏をフってしまう女の曲なのだ。

いつしかあなたと二人で 会う機会多くなってた あの時のような気楽な気持ち どこかに忘れてしまったよね

そう お互いに 恋心抱くよりも 解り合える 語り合える いつまでもそんな仲でいたいよ

要は「アナタとの恋愛関係に「コレジャナイ感」を覚えたから友達に戻りましょう」という一方通告である。孔明が泣いて馬謖を斬ったように女もきっと辛いのかもしれない。しかし私は女性でも丞相でもないから、フラれた男の辛さが胸に押し寄せる。

からしてみればかなり残酷な内容だ。女は曲中、男と友人だった頃を「あの頃がよかった」と懐かしむ。友人関係では満足できなかった男からしてみれば、無慈悲極まりない態度である。女は男の望みを否定し、自分にとっての最善を一方的に突き付け、男は不本意な妥協を余儀なくさせられる。とはいえ「居心地の悪い恋人関係を続けたくない」という女の意向はごもっともで、男のために不都合をあえて受忍する義理もないだろう。だから傍から見ればどうしようもない状況なのだけれども、そのどうしようもなさもまた惨い。

そんなことを思いながらもイントロのバッキバキなキーボードリフがカッコいいのでつい月1くらいのペースで聴いてしまう。本人のキャラとは裏腹ないっくんのディストーションギターもたまらない。心地よいサウンドに騙されて聴き入っていると、持田香織の飄々としたボーカルが心のfragileな部分を攻撃してくる。*1もはや聴く自傷行為である。

そんな男殺しの「Dear My Friend」だが、驚くことにこの詞を書いたのは男性だ。Dear My Friend」はEvery Little Thingのメンバー五十嵐充(当時)が作詞・作曲し、1997年にリリースされ、同曲はELT初のオリコンチャートトップ10入りを果たした。ここからELTはトップアーティストへの階段を上ることになるのだが、当の五十嵐はその3年後の2000年に同ユニットを脱退し、以降はプロデュース業に専念することになる。

五十嵐は何を思って「Dear My Friend」の詞を書いたのだろうか。その答えは知りたいようで、知りたくないような。

安達としまむら

「妥協しない愛」と「妥協を許す愛」

実は今年の初めに1巻だけ購入して読んだのだが、当時は続きを読む気になれなかった。アニメの放映が始まって、思い出したように2巻以降に手を出してみたら思いのほか面白く、一気に読んでしまった。

安達としまむら (電撃文庫)

安達としまむら (電撃文庫)

 

本作は2人の女子高生、安達としまむらの関係を描いた恋愛作品である。人付き合いはそつなくできるが何かと消極的なしまむらに対し、不器用だがまっすぐな安達が接近していく、というのが話の流れ。

好きな場面をあえて1つ選ぶとしたら5巻のクライマックスだ。安達はしまむらに依存的で、束縛的ですらある。そんな安達に対ししまむらは「他の人にも視野を広げた方がいい」と諭し、安達はしまむらの考えに歩み寄ろうと努力する。しかし安達は最終的に「自分にはしまむらの正しさは必要ない」と結論付ける。自分の幸せは集団に溶け込むことではなく、しまむらと2人で過ごすことで、その為に自分は足掻かなければならないと決意する。

しまむらに嫌われないよう同調する姿勢と、しまむらに対しても妥協しない姿勢。渦巻く2つの感情が衝突し、勝ったのはしまむらに向かうエゴイズム。これが安達桜の愛だ。感動的なまでに青臭く、エモーショナルなシーンである。

一方、しまむらは妥協する。安達にも理想があるように、しまむらにも理想がある。だから安達と生きることは、しまむらにとって安達によって何かを妥協することでもある。とはいえ「愛ゆえに妥協する」といってしまうのは、少し違うかもしれない。しまむらは安達の束縛的な姿勢を普通に厭がり、安達によって失われていくものに対しても感傷的になる。こうしたしまむらの態度に私は殉愛性を見出すことができない。

ならばしまむらのどこに愛を見出すことができるだろうか。私は安達と共に生きる意義を見出そうとする彼女に愛を感じた。ただ愛おしいだけではない侵略者との関係に、ときには何か失い、ときには妥協しながら、何を求めていけばいいのか。そうした己への問いかけに、しまむらの愛を見出すことができる。

しまむらは安達の想いを「まあ、いいか」と言って受け入れる。難しいことは明日の自分が考えればいい、という彼女は一見すると軽薄に思える。何かを後回しにする人間は、概して後回しにしたものになかなか着手しない。ただ、しまむらの場合はちゃんと明日以降に考える。ときには安達に手を焼きながらも、しっかりと彼女は安達のことを考えるのだ。

そんな彼女が霧の中で安達と生きる意義を見出す8巻のクライマックスは、ベタベタなシチュエーションではあるものの、幻想的でしっとりとした感動に包まれている。いつかアニメで見たいものだ。

アニメ「安達としまむら

アニメ版「安達としまむら」の良さは、「しまむらがかわいい」の一言に尽きる。

安達としまむら、どちらがかわいいかと聞かれれば、大方の読者、視聴者は安達が可愛いと答えるだろう。実を言うと私もそうだ。7:3くらいで安達の方がかわいいと思う。ただ、その「かわいい」はヴィジュアルの好みというよりは、不器用なりに不安と戦いながら頑張る安達の方に姿に可愛げを覚える、ということだと思う。

しかしである。安達がそう認めるように、しまむらもかわいいのである。

周囲からは「人に懐かなそう」「何を考えているか分からない」「人に興味がなさそう」と散々な評価のしまむらだが、安達に対してはパーソナルスペースがやたら近いし、子供のような表情を見せてくる。他人に興味がなさそうな女が、ノーガードで向かってくるわけだから、安達が惚れるのも無理はない。

しまむらが安達を虜にする原理は理解できるのだが、原作を読んでいるかぎりではどうしてもロジックとしての理解に留まってしまう。その点映像は強い。安達を狂わせるしまむらのかわいさが肌間隔で伝わってくる。とりわけOPのしまむらがかわいい。アクロバティックな姿勢で自転車に乗り安達と対面するしまむらは永遠に眺めたくなるような愛らしさに溢れている。

アニメは今週最終回を迎える。アニメは4巻までの内容で終わるので、5巻以降の内容は2期(あるんか?)に持ち越しとなった。

2期があってほしいと思う。今をときめく人気声優・鬼頭明里が例の「怪文書*2をどう演じるのか、すごく気になる。どうなるだろうか。

*1:余談だが持田香織は「Time goes by」の詞を当時よく理解しないまま歌っていたらしい。「Dear My Friend」に関しては何を思ったのだろうか。

*2:率直にいうと怪文書って言い方は正直好きではない。書き手の熱意を茶化して当然みたいな態度はどうなの?と思ってしまう。