ジョイナス最後の戦い

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ウイニング競馬MC鷲見玲奈という名の"少女"

 『Simoun』というアニメが今から10年前に放送されていた。

 『Simoun』はシムーンというアンモナイトのような形状の飛行艇を操る巫女たちの物語。このアニメの世界では人間はなんと全て女として生まれる。そして彼女たちは17歳になると性別を選択するのだ。

 作中、オジサンキャラが何名か出てくる。結婚し、父親となるキャラもいる。とんでもない話だが、彼らもみな昔は「少女」だった。主人公の巫女たちは現在進行形で「少女」である。性の選択をまだしていない「少女」でなければシムーン乗りの巫女になれないのだ。そんな巫女たちを見て、オジサンたちは物思いに耽る。「ああ、私も昔はあんな少女だったんだなあ…」と。

 

 私は競馬ファンである。過去形ではなく、現在進行形で競馬ファンとして生きている。実は競馬ファンになって5年も経っていない。ただ私なりに、競馬という娯楽と共に時間を費やした。もはや「ニワカ」とはいえなくなったと思う。

 「ニワカ」だったのは私だけではない。誰もが「ニワカ」だった。

 「ニワカ」という時期は最も熱い時期である。当然ながら「ニワカ」には知識と経験が足りない。だからこそ、「ニワカ」は欠けているものを埋めようと必死になる。そこに惰性はなく、情熱しか存在しない。

 

 鷲見玲奈アナ、彼女には競馬に対して真剣になる義務はきっとなかった。彼女は露出の多い服を着て、配当を読み上げるだけの存在でもよかったはずだ。

 鷲見玲奈アナの初登場時、我々視聴者は規格外の巨乳アナの登場に沸き立った。残念ながら、競馬の魅力は誰にでも伝わるものではない。しかし鷲見玲奈アナの胸の大きさは、老若男女問わず一瞬で理解できるほどのものだ。こんな胸が見られるなら、彼女がどうであれそれでいい。そう私は思った。

 しかしながら我々は、鷲見玲奈アナがただ乳がでかいだけの女子アナではないことに気付く。メインレースの名称にちなんだ自作バッジを彼女はその豊かな胸元につけて出演するようになった。彼女は番組に対して非常に熱心な女子アナだったのだ。そして競馬番組に真剣に取り組もうという姿勢は、鷲見玲奈アナに自ずと競馬に対してのひたむきさ、情熱を芽生えさせたに違いない。鷲見玲奈アナはこの2年の間に中央競馬中継の担当のアナウンサーにすぎないのにプライベートで大井競馬に足を運び、そこで3連単馬券を買っているような人間になってしまった。一般論として、中央競馬中継の担当のアナウンサーにすぎないのにプライベートで大井競馬に足を運び、そこで3連単馬券を買っているような人間は競馬ファン以外の何者でもない。

 

 鷲見玲奈アナが中央競馬中継の担当のアナウンサーにすぎないのにプライベートで大井競馬に足を運び、そこで3連単馬券を買っているような人間になってしまった2年の間、我々はウイニング競馬で何を見ていただろうか?私は巨乳を見ていた。しかしそれは50点の回答だ。巨乳を通して我々が見ていたものは鷲見玲奈という名の「ニワカ」だった。彼女はその大きな胸に競馬への情熱を宿し、だんだんと競馬を好きになっていった。

 我々もかつては、鷲見玲奈アナのような「ニワカ」だった。鷲見玲奈アナの艶めかしい胸・腋・腕・脚に喪失した自分の姿を、「ニワカ」だったころの熱い想いを、我々は見出していたのだ。それは『Simoun』のオジサンたちが巫女を見て「少女」だった頃の自分を思い出すような、懐かしく切なく、甘美なものだった。我々が喪ったものは鷲見玲奈アナの中に生きていた。しかしながら我々は、あと少しでウイニング競馬から鷲見玲奈アナを喪ってしまう。鷲見玲奈アナの中に確かに宿っていた、我々の熱い魂はどこへ行ってしまうのだろうか。

ちんぽジョイナスと土曜日のたわわ

 2016年、もはや胸の大きい女なんて珍しくない。街を歩けば巨乳の女とすれ違う。名古屋でなら5分に1回、豊橋でなら20分に1回くらいの頻度だ。それなのに我々はたわわに揺れる果実たちに触れることはできない。触れるどころか、心行くまま凝視することすら憚られる。乳に夢中な自分を知り合いに見られると思うと気が引けるし、そうでなくても公共の場でリビドーに忠実な自分を曝け出すというのは恥ずかしい。

 

 我々が日常的にひた隠しにする"性的な自己"をモニター越しに受け止めてくれたのが鷲見玲奈アナだった。競馬中継を視聴する我々の前に、鷲見玲奈アナはノースリーブで現れた。既に我々には「競馬中継を視聴したい」という目的が存在していた。それ故に「競馬を見ているのであって巨乳が目的じゃない」と弁明できた。そして弁明は巨乳を凝視したい我々の免罪符と変わっていく…このように鷲見玲奈アナは岐阜産完熟マンゴーと弁明の余地を引き下げて、我々の抑圧された精神を解放したのだ。

 

 鷲見玲奈アナの出演するウイニング競馬は"解放区"だった。鷲見玲奈アナは肉体を解放し、我々は精神を解放できた。そんな"解放区"が今年いっぱいで閉ざされてしまう。上機嫌でインタビューを受ける武豊戸崎圭太の姿も、きっと見られなくなるかもしれない。テレビ東京よ、考え直してくれないだろうか。

映像と音声が見せる<別の世界> ~やっぱり僕らには難しいよグラスリップ~

「映像」と「声」の出会い

alternative991.hatenablog.jp

 

 閃光から一定のタイムラグを経て、音が炸裂する。これが我々の知る花火だ。しかしアニメの世界では、閃光と同時に音が鳴り響く。おもしろいことに我々はそのことを何ら違和感なく受け入れている。余りにも違和感がなさすぎて、リンクした記事を読むまで自分もその事実に気付かなかった。

 リンクしたAlternative991さんの記事では、花火の音響について語った声優・音響監督の郷田ほずみ氏(旧H×Hアニメのレオリオ役の人)のインタビューの引用と共に、『グラスリップ』1話で閃光と同時に音が鳴る花火に混じって、光と音にリアルな時間差がある花火が舞い上がるという指摘があった。神社の階段を上る雪哉と祐が見逃す大きな打ち上げ花火がそれである。

gigazine.net

 これを読んだ当時*1は「何か引っかかる」程度にしか実感できなかったが、数か月経ってようやく気付いた。光と音がリアルにズレた花火の存在に、透子と駆を重ねられるではないかと。

*1:2016年6月

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GJ部/GJ部@ 雑感

空間と時間の有限性

 「GJ部」ではGJ部*1は空間と時間の有限性の関連が描かれている。

 「GJ部」では部室で文化祭の準備する様子は描かれても肝心の文化祭の様子は描かれないように、部室の外で部活動に及ぶシーンは意図的にカットされている。またプールに行くという話の流れだったのに、部室で水着になって戯れるだけで彼らは満足してしまう。その一方でキョロと真央のデート(?)や、キョロの天使邸訪問はこれは部活動の枠外だと言わんばかりに描写されている。家では「真央でいいよ」とキョロに言う真央。ここでは自分が「部長」ではなく「真央」だと示すことで、これが部活の枠外だということを示唆する。

*1:「」アリ表記は作品としてのGJ部、「」ナシは作中の部活としてのGJ部…という区別

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石動乃絵の「孤立」と「帰還」

石動乃絵の「宗教」

 仲上眞一郎と石動乃絵が初めて出会ったとき、乃絵は赤い木の実を取ろうと木に登っていた。赤い実は"天空の食事"で、これから気高く"飛ぶ"ものたちが口にするものだ。乃絵は"天空の食事"をニワトリの雷轟丸に与え、彼の涙をもらうという。乃絵は祖母の死を契機に泣けなくなった。再び泣けるようになるためには、気高く"飛ぶ"ものの涙が必要なのだ。

 ニワトリの涙を手に入れようとする乃絵。彼女のやろうとしていることは非科学的で常軌を逸しているように見える。しかしそこには原因と彼女なりの目的が存在する。そして、非科学的だがある原因の解決を目的とするものという点で乃絵の行動原則に近いものを我々は知っている。宗教だ。

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グラスリップにおける「海」と「山」について

 グラスリップでは「海」「山」の対比、対立が作中見え隠れしている。

 一番象徴的なのが7話で深水透子が沖倉駆が転落する"未来のかけら"を見る場面だ。

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 "未来のかけら"を未来予知だと信じ込んでいた透子は、落下する駆のイメージを見て「高いところは危険だから」「山」ではなく「海」に行こうと駆にせがむ。

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