ジョイナスブログⅡ

アニメ、競馬など。ホースコラボレーターの細江純子氏の予想が的中するとアクセス数が増えるブログです。

「アサ芸風俗」から細江純子のコラムが消えた

  アサヒ芸能が運営する風俗情報サイト「アサ芸風俗」にて掲載されているホースコラボレーター・細江純子のコラム「ホソジュンのアソコだけの話」の更新が途絶えてしまった。

 ホソジュンコラムどころか他の競馬予想コラムの更新も途絶え、競馬関連のタグはすべて削除されていた。競馬コラムどころかAV女優・高橋しょう子のコラムすらも更新されていない。風俗レポ記事のみが更新されているようである。愛知の生んだスタアのコラムの更新が途絶えた週に、名古屋・栄の熟女ヘルスのレポが掲載されていたのにはどこか因果を感じてしまった。

 これまでもホソジュンコラムの更新がない週はあったが、それは決まって年末年始やお盆等でアサ芸本誌が発売しない週だった。まだ7月。お盆休みにはまだ早い。アサ芸本誌は毎週のようにコンビニの棚に並び、ホソジュンコラムも同様に掲載されていた。どうやらホソジュンコラム自体がなくなったわけではないようである。また、幸い過去の記事のURLは残っていた。読みたい人は当ブログの感想記事からたどれば過去のコラムをまだ読むことができる。

 ホッとした半面、残念さも否めない。

 「アサ芸風俗」への掲載はホソジュンコラムのアーカイブとして機能していた。そのアーカイブ性は、私が当ブログにホソジュンコラムの感想を書くときに役立っていた。感想記事からコラムへの直リンで内容を紹介できたし、本文の引用も手軽にできた

 また、webで掲載されたコラムはSNSでシェアすることも容易だった。全てが上手く噛み合えば、細江純子のコラムがtwitterでバズる金曜の昼が日本の日常になっていたかもしれない。

 web掲載が途絶えたことで、ホソジュンコラムの可能性は狭まってしまった。このままではゴシップ誌にひっそりと連載されている著名人コラムで止まってしまうだろう。ホソジュンコラムの素晴らしさを伝えるため、ネットの片隅で奮闘してきた自分にとしては本当に残念でならない。

 そうした一方で、「これでよかった」と思う自分もいる。

 数か月前のシモネタコラムで純子が「テレビの有名人のセクハラや不倫への執拗なバッシングに辟易している」とこぼした回があった。それについて某巨大掲示板で「この人はセクハラを容認している」と批判する書き込みを私は見た。細江純子がシモネタを言うようになった経緯を書き込んでやりたくなったが、虚しくなり胸の内に留めていおいた。

 世はまさに大炎上時代である。大半の炎上については因果応報と思わないでもない。しかし世の中には文脈を切り取り、一部分だけを取り上げて勝手に怒り狂ってしまう人がいる。このネット社会に腰を据える以上、ホソジュンコラムとて炎上の対象になってもおかしくはない。その可能性の一端を私はネットの書き込みに見てしまった。

 純子の自虐やシモの事情なら私はドン引きしながらも笑うことができる。笑い続けてきた。しかし、純子の炎上を同じように笑うことはできないだろう。ホソジュンコラムのweb掲載がなくなれば、おそらく女性競馬評論家のシモネタが本当に好きな人にしか読まれなくなる。笑えない出来事はきっと起きないだろう。

 悲しいことだが、私はホソジュンコラムのweb掲載終了を肯定的に受け入れようと思う。

細江純子と伊藤隼之介とアニメ・ウマ娘プリティーダービー

「夢の喪失」

人は才能に対して「夢」を抱く。これは決して競馬に限ったことではない。最近でいえば将棋の藤井聡太七段や野球の二刀流・大谷翔平。傑出した才能の持ち主は、人々に新たな景色を見せてくれる。

サイレンススズカ競馬ファンがそんな「夢」を抱くに値する馬だった。私は1998年の競馬を体感していないが、もしもその時代に自分がいたら、きっとサイレンススズカに「夢」を抱いていただろう。圧倒的なスピードを武器に快進撃を続け、宝塚記念でついG1馬に。そして、秋のG1戦線でさらなる飛躍を見せようというタイミングでの非業の死。

サイレンススズカのようにターフを去ってしまう可能性がどの馬にも存在する。原因を「死」に限らなければ、期待馬・素質馬の無念のリタイアは珍しいことではない。だから若い世代のファンにとっても、きっとサイレンススズカの悲劇は他人事ではない。サイレンススズカ競馬ファンにとっての「夢の喪失」のアイコンなのだ。

「夢の喪失」のアイコンであるサイレンススズカが、「死」という運命から逃げ切り、ターフに再び戻ってくるというIf。これがアニメ・ウマ娘プリティーダービーの最大の見どころである。

 正直に言うと、私はこのスズカ復活の筋書きは好きではない。私も「たられば」は好きだ。でも「死」に関しては別だ。「死」と「死」に付随する一切の要素を無化して*1、充足するのはとても虚しいこと思ってる。これはあくまでも個人的な思想、というよりも私の強迫観念と言った方が正しいだろう(又はビョーキ)。Don'tではなくCan'tなのだ。だから「それでも夢の続きを見たい」という人の気持ちは痛いほどよく分かる。

(いとう)

私はこのアニメはTOHO Animationの伊藤隼之介プロデューサーの作品だと思っている*2

「競馬への冒涜だ」と言う人は依然としているものの、『ウマ娘』は競馬ファンの支持をそれなりには得られたと思う。伊藤Pはその立役者の一人だろう。

これは完全に私の主観でしかないが、競馬ファンは野球ファンやサッカーのサポーター等とも比しても仲間意識が非常に強いように感じる。そして、同胞への強い仲間意識は非競馬ファンへの警戒心の裏返しに思えてならない。たとえば松坂桃李や土屋太鳳らを起用したJRA(日本中央競馬会)の現行CMはファンのウケが悪い。ある競馬評論家は「あんな競馬に興味もなさそうなタレントたちをCMに使うなら、競馬ファン東出昌大を起用しろ」と言う*3。自分の知る限り、競馬ファンにはこういうような考えの人はけっこういる。

上述したような競馬ファンの心理に、伊藤Pの起用はマッチしていたのではないだろうか。彼がSNS担当として働いたことで、『ウマ娘』への警戒心が和らいだ競馬ファンはすくなからずいるだろう。twitterのアニメ公式アカウントのツイートからは、彼の競馬への深い造詣と愛が伺える。彼がアニメのPRに携わったことで、『ウマ娘』は作り手側に熱烈な競馬ファンがいるということを示すことができた。また、彼はアニメの告知に止まらず、アニメファンに実際の競馬をPRしようと公式アカウントを通じて努めていた。そういう姿勢には競馬ファンとして絆されるものがあった。

バンドワゴン

伊藤隼之介Pは私の好きなアニメ『GJ部』のプロデューサーでもあった。

joinus-fantotomoni.hatenablog.com

彼が競馬ファンであるということは、彼のtwitterアカウントを通じて『GJ部』放映当時から知っていた。その頃に流行っていた質問アプリを通じて「ダービーはどの馬が勝つと思いますか?」と質問したら「バンドワゴンが本物だと信じてます…」と答えてくれたことをよく覚えている。

db.netkeiba.com

バンドワゴンとアニメのサイレンススズカのプロフィールには通じるものがある。バンドワゴンもサイレンススズカ同様に逃げ馬だ。そして、共にケガが原因で休養することとなり、逃げではなく追い込みの競馬で復活する。

繰り返すが、サイレンススズカの復活というIfに私は感動できなかった。ただ、これは誰かが求めた展開である。誰かが描きたかったサイレンススズカという名の失われた夢の続きの物語である。その「誰か」は、きっと不特定多数の対象なのだろう。それをあえて誰かに特定することにきっと意味はない。ただ私は「バンドワゴンが本物だと信じてます…」と答えた伊藤Pを措定せずにはいられなかった。

差し切ったIf

アニメ・ウマ娘プリティーダービーでは元JRA騎手で競馬解説者の細江純子が本人役で登場する。ウマ娘の世界には騎手が存在しない。正確にいえば、アニメに出てくるのは元騎手でもないのになぜか競馬解説者となっている細江純子、すなわちIfルートを通ったのに競馬解説者という運命に収束してしまった細江純子である。この時点ではIfと運命は一進一退の攻防を繰り広げている。

joinus-fantotomoni.hatenablog.com

そんなようなことを以前ブログを書いたら、5話では武豊まで解説者役として登場してしまった。そしてエルコンドルパサーがダービーに出走し、「スペシャルウィークと同着」という形でダービー馬となってしまった。割と早い段階で、Ifに差し切られてしまった運命。サイレンススズカの復活劇も、ここから始まっていたのかもしれない。

「走って、スズカ」

細江純子の演技の上達もこの作品の見どころの一つであった。最初は、全くの素人。さすがに彼女がセリフを言うたびにに違和感が否めなかった。しかし、回を追うごとに顕著に上手くなっていく。声優の演技でも「回を追うごとに役がサマになっていくなあ」という感覚を受けることがあるが、純子の場合は異様なくらいの上達ぶり。当初は異物感すらあった細江純子というキャラクターが、完全にアニメの中に馴染み切ってしまったのだ。

個人的な作品のピークは、故障から復帰したサイレンススズカに対して投げかけた純子の「走って、スズカ」というセリフだった(11話)。処理しきれないくらい多くの感情を同時に抱かせるようなシーンだった。感じたことを全て書き切りたい。

・アサヒ芸能でシモネタコラムを毎週書いてるオバサンが声優やってて草

・純子の演技サマになりすぎワロタ

・これは大川慶次郎の「ライアン!ライアン!」のオマージュやろなあ

ここらへんは特に掘り下げる必要はないだろう。

そしてコンマ以下の時間の流れの中で、「あの細江純子が声優をやっている」ことや「完全に馴染んでいる」ことへのおかしみやオマージュへの感心を押しのけるように、一つの言葉が浮かび上がってくる。

「重い」。

細江純子サイレンススズカの悲劇

細江純子と現実のサイレンススズカの関係は、近からずされど遠からず、といったように個人的には思う。

サイレンススズカは当初は上村洋行騎手(現・技術調教師)のお手馬だった。上村洋行細江純子の兄弟子にあたる。

そしてサイレンススズカ橋田満厩舎に所属していた。橋田満厩舎は細江純子の配偶者・児玉武大助手の所属先でもある*4

「走って、スズカ」というセリフを競馬関係者に言わせるなら、細江純子はちょうどいい人選だっただろう。近すぎず、遠すぎない。これが上村元騎手だったらキツい。武豊だとなおキツイ。細江純子だからよかった。でも「重い」。

騎手や厩舎スタッフの当事者性は、競馬ファンのそれとは確実に違う。彼らはファンよりも密接に馬と関わって生きている。私たちファンよりも、馬の生死と直接的に関わる立場なのだ。だから私にとっての「サイレンススズカの悲劇は他人事ではない」と細江純子にとっての「他人事ではない」は比較にならない。比較にならないくらい後者の方が重い。絶対に。

細江純子の競馬従事者としての馬の死への当事者性が、ジョッキーとしてのサイレンススズカへの想いが、「走って、スズカ」というセリフに重力を与えていた。そこに、純子の演技力の向上が相まって、ブラックホールのような吸収力が生じていた。私はその重力に引きずられるように、「ここは感動すべきなんだろうなあ」とか「このセリフ、流れの中で自然に生まれたものであってほしいなあ」「視聴者を感動させる仕掛けとして意図的に組み込まれたものであってほしくないなあ」とか、「感動のシーン」を目にしながら考えていた。「感動すべき」だとは思っても感動することはできず、ただ「重み」だけが胸を圧迫する。それは心地いいものではなかった。しかし、意味のある体験だった。

最後に

アニメ・ウマ娘プリティーダービー。私にとって一体何だったのか。

ここまで書いておいてアレだが、決して自分の見たいものを見せてくれた作品ではなかった。サイレンススズカの復活には感動できなかったし、スポ根としてなら、JCでブロワイエ(モンジュー)を倒して終わるよりも、有馬記念グラスワンダーに挑んで負ける終わり方の方が個人的には美しかったと思う*5。私に充実感を与えてくれたとは言い難い。

ただ、サイレンススズカの復活劇を通して「競馬を愛する他者」の存在を強く意識させられた。この感覚は競馬ファンとして生き続ける限り、忘れてはいけないことだろう。私にとってのウマ娘は物語の消費でなく、他者性を実感する体験だったのだ。

この作品の関係者、とくに伊藤隼之介プロデューサーとシモネタコラムで忙しい中熱演してくれた細江純子氏に感謝したい。そして細江純子さんが「嫁が本人役で出演しているアニメを見た夫の反応」をアサヒ芸能に掲載しているコラムで書いてくれることをカリ‥‥首を長くして待っています‥‥ナンチッテ。

*1:ただし7話はサイレンススズカが時速60キロの走行から転倒することで死ぬ可能性も匂わされていた。「スペシャルウィークが助けなければ」というIfが成立する。

*2:暴論なのは承知だが、世の中には脚本家がさもストーリーメイキングの全権を握っているように語る人もいるので見過ごしてもらいたい。

*3:「新規層向けのCMに競馬ファン受けするキャスティングしてどうするの?」と思う方もいるかもしれないが、「顧客満足度を重視しろ」というのも消費者の自由だろう

*4:個人的には児玉助手のウマ娘の感想が一番知りたい。自分の嫁が声優として出演して、そのうえ担当馬(アドマイヤベガ)も女体化されている

*5:凱旋門賞ジャパンカップでは条件が違いすぎる。スペシャルウィークは有利な舞台でモンジューに勝っただけ、という印象がどうも残ってしまう。

アサ芸・細江純子コラム傑作レビュー2018②

いつもより長い「はじめに」

「「私、アイドル」と言いながら可愛くない奴は最悪」とシアトル・マリナーズイチロー・スズキは言った。第2回WBC終了後の記者会見でのコメントである。

私見だが、「私、アイドルと言いながら可愛くない奴」は最悪ではない。ピエロである。

同様に「競馬予想ブログと言いながらシモネタばかりのコラム」もピエロである。あるいは常時ツッコミ待ちの芸人である。その存在だけでギャグが成立していると言っても過言ではない。

 

ホソジュンコラムの構造は非常にズルい。それ単体でギャグとなるシモネタが、「競馬予想ブログと謡いながら競馬予想が蔑ろにされている」というツッコミどころを副次的に生み出している。ワンアクションで2つの益を手にしているのだ。

ホソジュンコラムの独自性はこの副次的要素に拠るところが大きい。シモネタを売りにしている人はおそらくごまんといる。彼らはシモネタを用いてモラルから逸脱する。しかし純子はシモネタを用いることでモラルだけではなく「競馬予想」という本来的な目的からも逸脱する。やっていることが同じように見えて、深みが全然違うのだ。

「シモネタは心の逃げ場であり、救世主」という純子の価値観*1がホソジュンコラムの「魂」ならば、「いつの間にかシモネタを書くことが目的となり競馬予想が蔑ろにされる本末転倒な構造」はコラムが手に入れた唯一無二の「プロフィール」であり、自他を明確に区別する「ホソジュンコラムらしさ」なのだ。

言い換えれば「ホソジュンコラムらしさ」とは「競馬予想を蔑ろにしてまでシモネタを優先する本末転倒な姿勢」である。本来の目的を逸脱してまでシモネタに興じるバカらしさがツッコミどころとオリジナリティを付与している。

もしも私が内閣総理大臣なら、この「ホソジュンコラムらしさ」の発明を理由に純子に国民栄誉賞を授与するだろう。イチロー細江純子のダブル国民栄誉賞で愛知県民を喜ばせたい。

しかし、本当に哀しいことだが、私は内閣総理大臣ではない。よって私にあげられるものは細江純子オブザイヤーだけである。私にできることは細江純子オブザイヤーに値する作品を選定することだけである。何もあげられないに等しいし、何もできないに等しい。無力だ。

そんな無力な私の前に、純子の新たなマスターピースが姿を見せたのはGW明けのことだった。

「2走前の東京新聞杯(1着)の内容から武豊騎手騎乗リスグラシューに期待!」(2018/05/11)

asageifuzoku.com

内容は定番のヘンタイ息子ネタである。息子のヘンタイっぷりを心配する純子が周囲の人間に「ヘンタイの子はヘンタイ」とバッサリ切られるのも、ホソジュンコラム的予定調和の中にあるように思える。

しかし勘のいい人なら、川端康成の『雪国』を彷彿とさせる冒頭部から「今日は純子は一味違うな」と感じるだろう。こういう文学的な出だしは、エッセイテイストのホソジュンコラムには珍しい。

そして文学を意識した冒頭から一転するように、(1)、(2)、(3)‥‥と箇条書きで連ねられる息子のヘンタイ行動。文学から箇条書きへのシフトが、ディスプレイ越しから異様さを醸し出す。戸惑いながらコラムを読み進める読者に純子は最後の矢を放つ。

もう息子にもムスコにも何も言えない‥‥。言えるのは今週末の予想だけだ。

ホソジュンコラムの愛読者は「言えるのは今週末の予想だけだ。」というフレーズに堪えられないだろう。

先にも述べた通り、ホソジュンコラムの魅力は「競馬予想を蔑ろにしてまでシモネタを優先する本末転倒な姿勢」である。これまで散々シモネタを言い続けてきたその口で「私に言えるのは今週末の予想だけだ」と言い切る。もう笑うしかない。

そして「言えるのは今週末の予想だけだ。」というフレーズの堅く力強い口調も面白い。

ホソジュンコラムの文体の特徴は以下の4つである。

・です・ます調

・多用される体現止め

・形容詞のカタカナ表記(例「あなどれない」→「アナドレナイ」)

・「ー」を「~」に、「~である」を「~でア~ル」と表記

ホソジュンコラムは柔らかく、くだけた文体で書かれている。ですます調を基調とし、「~である」を使うときも「~でア~ル」とカタカナと「~」を用いて堅さを緩和している。

それゆえに「~だ」という表現がホソジュン節の中に混じると非常に浮く。コラムを何回か読んでみれば、「~だ。」という堅い断定口調がいかに定石破りなものなのかが実感できるだろう。この言い回しは、細江純子らしさを著しく欠いている。それだけに強烈な印象が残る。

つまり「もう息子にもムスコにも何も言えない‥‥。言えるのは今週末の予想だけだ。」とは「「ホソジュンコラムらしくない発言」が「ホソジュンコラムらしくない口調で語られる」」という細江純子の極めて高度なギャグなのだ。「らしさ」をあえて捨てて笑いを取る…これは本当に競馬評論家の所業だろうか?

そしてこのギャグの背景には「川端康成じみた冒頭→箇条書き→細江純子らしからぬ強い断定口調」という流れがあることも見逃せない。「ホソジュンコラムらしくない」雰囲気が、こうした文章のスタイルの変化からも補強されているのだ。

競馬評論家が「私に言えるのは週末の予想だけ」と言うだけでギャグになる。そんなギャグが成立するまでの奇跡のような一部始終。ホソジュンコラムを読んでいて思わず語彙を失うほどの衝撃を受けることは珍しくないが、ここまでの凄みを覚えた回はこれまでになかった。思わず「ホソジュンコラムとは何ぞや?」と改めて自分自身に問いたくなるような深い味わいがこの回にはあった。そしてホソジュンコラムが深すぎると、レビューがこんなにもくどくなってしまう。ソーリー読者。そしてサンキュー純子。フォーエバーシモネタ。

まだ2018年は折り返し地点にすら到達していない。時期尚早にも程があるだろう。しかし、あえて言わせてほしい。本作品が細江純子オブザイヤー2018になる、と。