ジョイナスブログⅡ

アサヒ芸能で連載中の「ホソジュンのアソコだけの話」の感想・二次創作等を掲載するブログです。

[ジョイナス(Chimpo_Joinus)の競馬予想ブログ]ジョイナスのアソコだけの話「レイザーラモンRGが闇営業をしてなくてよかった」

最近スマタ‥‥チマタを騒がせた闇営業問題。好きな芸人さんが反社会的勢力の方々とツナガッテル(なんかイヤラシイ‥‥ナンチッテ)ことが発覚してショックを、受けた方も多くいらっしゃるのではないでしょうか?

 

好きなタレントが闇社会の方々と交際しているのを知るのは一種のNTRのようなものです。私はレイザーラモンRGが大好きなのですが、RGが詐欺師グループの忘年会でカルロストシキ&オメガドライブの『君は1000%』に乗せてあるあるを披露していたら‥‥と思うと胸が痛みます。詐欺師たちから「早く言えや~」と急かされるRG。そんなRGを見たら私はきっと大爆笑してしまうでしょう。

 

こんなことを言うと私にはNTR性癖があるように思われてしまうかもしれませんが、はっきり言ってNTRは嫌いです。ここ数か月エロサイトを見るたびに、目の前で片想いをしている女の子がRGみたいな頭の友人とエッチをしてしまうエロ漫画の広告が流れてるのですが、あれを見るのが嫌でつい広告ブロックアプリをダウンロードしてしまいました。あんなものを見るくらいなら、細江純子のランジェリー姿を見る方がマシ‥‥ナンチッテ。

 

さて、来週の函館記念が担当する助手が細江純子にも乗ったことがあるスズカデヴィアスに注目します。

 

それでは皆さん、週末は中京競馬場浜名湖競艇でお会いしましょう。ジョイナスでしたぁ。

ジョイナスレの田島について

数年前に中日ドラゴンズ田島慎二投手と伊藤準規投手のトークイベントに私が出向いたときのことだ。

二人への質問コーナーが設けられ、質問をしたい参加者は壇上の司会者に見えるように挙手をした(私はしなかった)。すると、誰からも許可されたわけでもないのに3人のドラゴンズファンが壇上に上がり込んだ。家族連れが多い中、彼らの着ている痛々しく装飾されたユニフォームは浮いていた。

3人のドラゴンズファンは司会者からマイクを奪うと「高木守道の采配についてどう思う」と田島と伊藤に対して言い放った。当時の高木監督への不満・批判を2人に言わせようとしていることは誰の目にも明らかだった。田島と伊藤がどう答えたかは忘れてしまったが、彼らの誘導には乗らなかったことだけは覚えている。

私はトークイベントに水を差した3人のドラゴンズファンのことを時折思い出す。自分たちには挙手をする子供たちを差し置いて壇上に登る権利があり、選手を困らせるような質問をする権利があるということを疑う余地がないと言わんばかりの3人の中年男性のことを。

彼らのような人間は探そうと思えばどこにだっている。何も野球に限らない。サッカースタジアムにも。競馬場にも。声優のコンサート会場にだっている。インターネットにも沢山いる。何かが彼らの、あるいは私たちの愚行を許している。なんだろうか。私には「応援」が免罪符になっているとしか思えない。

応援というのは結局は日常の憂さ晴らしであり、応援対象を通じて仮初の勝利体験をするための儀式である。しかし応援している対象が結果を出せなければ、応援に費やした労力や時間や財力を無駄である。とはいえ「自己責任」で済ませられない。何らかの代償行動が求められる。その選択肢の一つとして、ファンは徒労感を被害者意識に変換し、自分は被害者であるというドラマに没頭する。自分は被害者だから相手を非難しても構わない。攻撃的になっても構わない。これが気持ちいいのだ。

こうした被害者意識が増大した結果、あるいは個々の本来の人間性との相乗効果によって、愚行権を持った特権階級であるという自意識が生じてしまうのではないのだろうか。

つまり私が何が言いたいかというと、「応援」というのは決して美しいものではないということだ。ひょっとしたらファンが応援行為を通じて期待しているのは勝利体験ではなく、被害者意識という一種のバーサク状態ではないのだろうか。そうなれば「応援」とは理性とモラルの枷から己を解放し暴れ回ることへの免罪符であり、その為に都合のいい被害者という資格を得る手続きでしかない。

だから「応援を否定されてファンが可哀想」という例の一件への言及を見るたびに、ついつい呆れてしまう。

そんなここ数日でした。ちなみにこの記事はタイトルとは関係のない内容に展開するジョイナスレへのオマージュです。なんてことだ…なんてことだ…

自虐する幾原邦彦———『さらざんまい』感想

『さらざんまい』を最後まで視聴して強く感じたことは、この作品はこれまでの幾原邦彦作品とは違うということだ。

幾原作品では常に愛が問われ続けてきた。そして必ずと言っていいほど、愛に殉じるキャラクターが描かれることとなる。

愛に命を捧げることは尊い。その尊さを私たちが理解できないのであれば、多くの創作物が成立しないだろう。

しかしながら、自己犠牲を尊いと感じる私たちの意識は危ういと言わざるをえない。犠牲とはやむを得ず生ずるもので、なければないに越したことはない。それなのに私たちは犠牲を尊く、甘美なものとして受容してしまう。本来なら避けるべきである喪失に美を感じ、当然のものとして受け止めてしまう。

少なくとも『輪るピングドラム』以降の幾原作品の本旨は相互承認である。幾原が描きたかったものは決して自己犠牲の賛美ではないだろう。ということを踏まえても、幾原作品と自己犠牲を切り離すことはできない。『少女革命ウテナ』から『ユリ熊嵐』まで、どの作品においてもキャラクターの自己犠牲が舞台装置となり物語を最高潮まで押し上げてきたからである。

一方で『さらざんまい』は自己犠牲を「ダサい」と否定する。あまりにもストレートな幾原の自虐に私はたまげてしまった。たまげるほど自虐的な尻子玉奪取アニメ『さらざんまい』を私なりに整理していこうと思う。

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