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ジョイナスブログⅡ

アニメ、競馬など

映像と音声が見せる<別の世界> ~やっぱり僕らには難しいよグラスリップ~

グラスリップ 考察・感想 アニメ 細江純子
「映像」と「声」の出会い

alternative991.hatenablog.jp

 

 閃光から一定のタイムラグを経て、音が炸裂する。これが我々の知る花火だ。しかしアニメの世界では、閃光と同時に音が鳴り響く。おもしろいことに我々はそのことを何ら違和感なく受け入れている。余りにも違和感がなさすぎて、リンクした記事を読むまで自分もその事実に気付かなかった。

 リンクしたAlternative991さんの記事では、花火の音響について語った声優・音響監督の郷田ほずみ氏(旧H×Hアニメのレオリオ役の人)のインタビューの引用と共に、『グラスリップ』1話で閃光と同時に音が鳴る花火に混じって、光と音にリアルな時間差がある花火が舞い上がるという指摘があった。神社の階段を上る雪哉と祐が見逃す大きな打ち上げ花火がそれである。

gigazine.net

 これを読んだ当時*1は「何か引っかかる」程度にしか実感できなかったが、数か月経ってようやく気付いた。光と音がリアルにズレた花火の存在に、透子と駆を重ねられるではないかと。

 深水透子と沖倉駆にはそれぞれ能力があり、透子は光をきっかけに幻覚を見る。そして駆は音をきっかけに幻聴を聞く。二人一緒にいるとき彼らは「未来のかけら」による映像と声を同時に受け取ることができるが、お互いに単独では透子は映像、駆は声のみしか感受できない。つまる話が映像と声は相互に独立した存在であり、透子と駆が出会うことでそれらは重なり合うということだ。

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 先述したように、『グラスリップ』で舞い上がる花火は、当該の花火以外はすべて閃光と同時に音が鳴るアニメの世界に則った花火だ。しかしホンモノの花火は光と音がそれぞれ分離している。光と同時に音がなる花火の中に混じった光と音にリアルな時間差が生じる花火は、本来なら光と音は別々の存在だということを示唆していると自分は解釈する。そして別個のものだから重ね合わせるという動作が必要になるのだ。

 『グラスリップ』2話の時点で駆は自分の幻聴に対して「未来の声」だという解釈をしている。透子も自分の聞いた「未来の声」と全く同じセリフを自分が口にしたことで、駆の解釈を信じ込む。かくして二人は自分たちの身にふりかかる幻影、幻聴…つまりは「未来のかけら」が彼らの"未来"を表わしていると思い込むようになる。しかし実際には「未来のかけら」が未来を映し出しているというのは透子たちの誤った認識であり、彼らは映像や声が包括する本質を間違って受け止めていたのである。

この世界のタマネギはアニメの世界でブロッコリーになる

 「未来のかけら」は映像と声を重ね合わせたものと説明したが、我々の身近なところにも映像と声を重ね合わせて作られるものがある。それはアニメだ。そして我々のアニメ映像・音声に対する認識は、透子・駆の「未来のかけら」の認識をめぐる構図に通じる。唐突な話の飛躍に驚かれたかもしれないが、主旨を説明する前に、先の郷田ほずみ氏の講演の記事に興味深いエピソードがあったので引用したい。 

一度キャラクターが画面上でブロッコリーを食べているシーンがあって、それに効果さんがサラダを食べているシーンの音をつけてくれたんですけども、監督が「このブロッコリーは、そんなに茹でてないんだ」って言い出したんです。もっと生に近いブロッコリーなんだって監督が言い出して。効果さんが「そんなの色が付いてねえからわかんねえよ」と。白い線画ですからね。「色がついてねえのに、わかるか」って言い出して。で、「後で色が付いたらもっと固い感じが分かるようになるから、もっとカリッ、シャリッて音にしてもらわなきゃ困る」って。(中略)で、アシスタントの子が「何か探してきます!」って事務所の方に走っていって。そしたらちょうど、そのスタジオで、バーベキューを何日か前にやったばっかりで、材料があったみたいなんですよね。で、「ありました!」って持ってきたのが、タマネギだったんです。どうするの……って思ったら、効果さんが「よしわかった、マイクを持ってきてくれ」って、タマネギ1個持ってスタジオのブースに入っていって、タマネギをばりばり食いましたからね。その時「ああ、この人はプロだな」と思いました。

 堅く茹でたブロッコリーを食べるシーンの効果音に、タマネギを食べる音を使ったというエピソード。考えてみれば当たり前のことだが、アニメの効果音が何で構成されているか、本当は何の音であるか、我々視聴者は知らない。しかしながらその音の正体が何であれ、ある一定の意味を持つものとして音を認識せずにはいられない。駆が自分の耳に聞こえる「声」を「未来の声」と認識したように*2。その際に、何らかの要因が我々の対象への認識を方向づける。そしてその作用は本質的な姿と乖離した方向に導きうる。これは音の認識に限ったことではなく万物の認識に通じるが、あくまでも「音」の認識を方向づけるものの一つとして「映像」があるということをこれから例示していきたい。

 繰り返すが、我々はアニメの効果音が何で構成されているか、本当は何の音なのかを知らない。故に我々にとって効果音とは不確定の存在であるといえるが、ブロッコリーを食べるシーンに添えられればそれは「ブロッコリーを食べる音」と認識されるし、風が草木を揺らすシーンで聞こえれば、それは風の音と認識される。つまる話が映像が我々の音に対する認識に一定の方向性を与えてしまうということである。

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 <映像と音の認識の方向性の相関>の最たる例が、7話の「お似合いのカップルね」のシーンである。「お似合いのカップルね」という高山やなぎの声を聞き、透子は錯乱する。「お似合いのカップルね」というセリフだけなら、我々はそれをやなぎの透子と駆に対する冷やかし混じりの祝福と捉えることもできる。しかしながら透子も、そして我々もポジティブな解釈をすることはできない。向かってくる黒い鳥たちが我々にネガティブな印象を感じさせるからだ。その印象は、我々のやなぎの声に対する解釈にネガティブな誘導をする。

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映像を止めるハーモニーショット

 映像が音の認識に方向性を与える。その逆もまた然りである。上記画像のシーンは1話終盤、透子たち5人がカゼミチで談笑するシーンである。このカットは西村監督の十八番のハーモニーショット、早い話が止め絵である。ハーモニーショットといえば「見せたいシーンをパシッと決める演出」というのが一般的な認識だと思うが、本当にそれだけだろうか。ハーモニー演出の間、映像は止まり、透子たちは動かない。しかしながら我々はこの止め絵を見て、ディオのような能力者が作中の時間を静止してしまったとか、メドゥーサのような怪物が人々を硬直させてしまったとは考えない。映像が止まっている間、我々は「自分たちの目には止まって彼らは見えるが、自分には見えない場所で彼らは語り合っている」と直観している。その直感の根拠は何だろうか。それは透子たちの話し声である。彼らの話し声が聞こえるから、映像が止まっている間も、彼らが話していると我々は認識する。つまり声の存在が我々の映像に対する認識に以下の方向性を与えているのだ。「映像の静止はあくまでも我々の目に映る映像の静止であり、作品の世界の静止を意味するのではない」と。映像が静止しても、テレビのモニターの向こう側の世界は流動していると感じるわけだ。この瞬間、我々が生きる<世界>とモニター越しに存在する<別の世界>という構図が浮き彫りになる。

<別の世界>を垣間見させるモニター

 『グラスリップ』には<別の世界>を想起させるメタファーが散りばめられている。最終話にて永宮幸が提示した江戸川乱歩の『押絵と旅する男』もまた、<別の世界>の存在を示唆する内容の作品である。冒頭の一文を引用したい。

この話が私の夢か私の一時的狂気のまぼろしでなかったならば、あの押絵おしえと旅をしていた男こそ狂人であったに相違そういない。だが、夢が時として、どこかこの世界と喰違くいちがった別の世界を、チラリとのぞかせてくれるように、また狂人が、我々のまったく感じ得ぬ物事を見たり聞いたりすると同じに、これは私が、不可思議な大気のレンズ仕掛けを通して、一刹那いっせつな、この世の視野の外にある、別の世界の一隅いちぐうを、ふと隙見すきみしたのであったかも知れない。

 江戸川乱歩 押絵と旅する男

 『押絵と旅する男』は主人公の「私」が旅の途中で押絵を持ち歩く男と出会う物語である。押絵には老人と少女の姿が飾られてあり、この老人は男の兄だという。男の兄は押絵の少女に惚れてしまい、少女と一緒になるために押絵の中に入りこんでしまったという。「私」は押絵の中にある<別の世界>を垣間見ることとなる。作中の文学作品の引用でいえば、「夢」という人間の無意識下を扱った夏目漱石の『夢十夜』も<別の世界>との遭遇を想起させるものとはいえないだろうか。また、9話で描かれた「地球照」も「月の欠けた部分」という本来なら我々の手が届かない<別の世界>を地球が反射した太陽の光が照らして見せるというものである。

<別の世界>を見せるモニターとしてのアニメ

 これらの事柄のような「<別の世界>を垣間見るさせるもの」としてのアニメの性質をもう少し掘り下げていきたい。アニメは映像と音声を合わせることで制作される。そしてアニメはただの映像と音声の併合物と共に、一つの世界―――我々の生きる世界とは違う<別の世界>を内包した物語を視聴者に提示する。そこでのアニメの役割は、我々の生きている世界とは異なる<別の世界>の存在をダイレクトに伝達するものではなく、それを間接提示するモニターとしての役割である。モニターとしてのアニメは<別の世界>の様子をありのままに映すわけではない。

 ここでハーモニー演出の例をもう一度考えたい。ハーモニーショットとはモニターの故障のようなものである。つまりはモニターが故障し映像が静止してしまうことを意味する。我々は、モニター上で今静止しているものが<別の世界>の仮の姿でしかないこと実感した瞬間に、本当の<別の世界>の時間が止まらず流動していることも実感する。そしてこの事柄は、我々がその瞬間に<別の世界>の存在を確信していることを意味する。

モニターとしての「未来のかけら」

 自らの属する世界ではない<別の世界>を垣間見るという点において、我々のアニメ視聴と「未来のかけら」は通じている。透子と駆は「未来のかけら」が未来を映し出していると思い込んでいた。現在に生きる我々にとって、未来とは先の時制に存在する<別の世界>である。「未来のかけら」が「未来」を表わしてはいなかったが、彼らが「未来」という答えに行きついた事実は、彼らが「未来のかけら」を通じて<別の世界>を垣間見たという実感があった証明になる。その実感の解釈を透子たちは「未来」と間違えたということだ。

 「未来のかけら」が「未来」を表していないとしても、<別の世界>を映し出すモニターであるということには変わりがない。しかしながらこの作品は、「未来のかけら」が提示する<別の世界>が一体何なのかということをはっきりと説明してくれない。ただ明確な答えを出してくれないというだけで、「未来のかけら」の正体というものを我々は類推することが可能である。7話の「お似合いのカップルね」というやなぎの声、そして12話の駆の「唐突な当たり前」を透子が味わうifの世界。これら明らかに彼らの「意識」、平たく言えば「心」を表出したものである。我々の世界というものは、我々の意識の中に知覚されるものであり、意識こそが世界と解釈できる。そして他者の意識は自分の意識ではない別の意識、<別の世界>と定義できる。

 ところが最終回で「未来のかけら」の正体について透子と駆はこんな会話を交わす。

「あれは未来なんかじゃなくて、まだ起こってない…だけどきっとこれから起こること…あれ?これって同じ意味?」

「同じ意味で言ったのかい?」

「えっ…あー…違うかも」

「だったらそれは違う意味なんじゃないか」

  これが『グラスリップ』という作品内で一番厄介なシーンである。「未来のかけら」を通じて駆の「唐突な当たり前の孤独」を垣間見たはずの透子が、「誰かの心」という答えに行きつかず、「未来ではなく、まだ起こってないがきっとこれから起こること」という頓珍漢に見える回答をする。このセリフの真意がつかめないと『グラスリップ』は見た人にとって意味不明な作品で終わってしまうだろう。

「未来のかけら」は主観にすぎない

 透子が言いたかったことは「未来のかけら」とは「未来」ではなく「まだ起こっていないが、"これから起こる"と私が主観的に感じたこと」という意味だろう。それを強引に言い直せば「未来のかけら」は彼らの主観に属するものにすぎないということである。この発言の肝は「未来のかけら」を通じて垣間見たものが、「未来」のように絶対的なものではなく、あくまで透子が主観的に"感じた"ものだということだ。「きっと~する」という表現には話し手の強い確信が伴うが、その確信とはあくまでも話し手の主観でしかない。故に前者は予定された事象として絶対に起こることを意味するが、後者は透子が「きっと起こる」と感じただけ。駆の言う通り両者は「違う意味」を持っているということになる。

 「未来のかけら」も我々にとってのアニメと同様に<別の世界>と透子たちをつなぐただのモニターでなのである。それは「未来のかけら」を通じて透子たちは<別の世界>そのものに直接触れられるというわけではなく、あくまでもモニターを通じて彼らの主観体験として<別の世界>を間接的に垣間見ることができるという意味でしかない。12話で透子は「未来のかけら」によって<別の世界>に転移したように見える。しかしそこで出会った駆は自分を「透子の中の俺の投影」といい、自分が彼女の主観世界に属する存在であると明かす。つまりは12話における長い幻想は、駆の家でピアノを聴いている透子の主観体験なのだ。また、12話では下の画像のようなワイプが登場する。

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 突如として現れた複数のワイプは、世界をそれぞれの角度から映し出すモニターである。「モニターを通じて世界を覗き込んでいる」という事実を示唆する演出だったのではないかと思われる。

 しつこく繰り返すが、我々がモニター越しに見る世界とモニターの向こうにある世界が同一であるとは限らない。それはモニターには突然"静止"してしまうような脆弱さ*3があり、対象物を正確に写し出すという信頼がおけないからだ。つまるところ、我々にはモニターの向こうにある<別の世界>の本質的な姿を確かめる術がない。「未来のかけら」とは何か?と我々がいくら考察しても―――その結果「あれは人間の心だ」という仮説を導き出せたとしても、本質的にそれが正しいかどうかなんて誰にも分からない。それが『グラスリップ』のスタンスだと私は思うのだ。もちろん、それは視聴者の要望とかけ離れたものだというのは私には否定できない。

実感は疑えない

 我々は<別の世界>の本質的な姿を理解することはできない。それなら透子たちの体験はなんだったのだろうか?ただのまやかしだったかもしれない。しかしまやかしだったとしても、透子たちが「未来のかけら」を通じて何かを感じたことは動かしようのない事実だ。つまり哲学者デカルトの「我想う、故に我あり」である。この世の一切は疑わしいが、自分が何かを感じ、思っているという実感だけは疑いようがないのである。10話で透子が窓の外に見ている雪の幻想について、透子と駆はこんな会話をする。

「確かに、俺たちが見たり聞いたりしていたものは、未来じゃなかったかもしれない。だけど君は、窓の外に冬の景色を見ている。何かが見えて、聞こえたことは間違いじゃないんだ」

「そうよね…何かが起こっているってことは認めなきゃね」

  「未来のかけら」を通じて垣間見たものは主観でしかないが、主観における実感そのものは疑えない。これこそが『グラスリップ』という難解なアニメが行き当たる真理ではないかと私は考える。透子が「未来のかけら」を通じて冬の景色を見ていたのは事実だ。そして12話で「唐突な当たり前の孤独」を彼女が体験したという実感も疑いようもない事実である。

他者の存在の実感

 駆の母が奏でるピアノの音色に誘われて「唐突な当たり前の孤独」を体験した透子はその場から離れようとする駆に「行かないでと」手を伸ばし、彼の腕を掴む。この行動は6話「パンチ」で母親のピアノを聞いて、駆が対してとった行動と全く同じである。透子と駆はピアノの音色を通じて駆の家に彼の母親が帰ってきたことを知る。沖倉家の家族水入らずの機会を邪魔しないよう帰ろうとする透子に駆は手を伸ばし、彼女の腕を掴み止める。駆の「唐突な当たり前の孤独」の原因たる母親の存在と、それを象徴するピアノの音色。そして自分のもとから去ろうとする透子。駆はこの光景を受けて「唐突な当たり前の孤独」を追体験してしまったのだろう。

 「唐突な当たり前の孤独」に直面し、離れようとする相手の腕を掴んだ両者。透子と駆のリアクションの一致は、彼らが同じことを体験したことの何よりの証明である。駆の腕をつかんだことで、「駆くんの気持ちが少し分かったような気がした(13話)」という実感が透子に訪れただろう。透子も駆も「唐突な当たり前の孤独」の前では誰かの腕を掴みたくなる。つまる話が「唐突な当たり前の孤独」を認識した二人の意識が身体にもたらした作用が同じだったということで、二人の意識が同じ性質を持っているということの表れだ。「駆の少し気持ちが分かった」というのは透子は暗黙裡に駆が自分と同じ性質の意識を持つ存在だということを実感したということ。それは透子が駆の意識という<別の世界>の存在を実感したということでもある。

 作品のラスト、新学期が始まり学校に向かう透子は、「未来のかけら」によって透子の名前を呼ぶ駆の声を聞く。「未来のかけら」によって透子は駆の気持ちを本質的に理解したわけではない。しかし「未来のかけら」を通じて駆の気持ち、言い換えれば意識の存在を実感できる。おそらく駆は日の出浜の町から遠く離れた場所に去っていってしまっただろう。しかし「未来のかけら」が駆の姿や声を現す限り、透子は駆という「意識」がこの世界のどこかに存在しているということを実感できる。おそらく駆も同じだろう。離れていても互いの存在を実感できる関係として、透子と駆は結ばれたということである。

最後に 

 自分は分かりづらい『グラスリップ』を分かりやすく説明しようと何度も試みたし、その試みの一環は過去のブログ記事として結実している。ただ今回は「分かりやすく説明する」というのをやめた。かもめはかもめであり、孔雀や鳩や、ましてや女にはなれない。難しいものが簡単になることも同様に無理なことだと、私はようやく悟ることができたということだ。おそらく今回の記事は理解しずらいだろうなあ、と思う。最後まで読んでもらえなくても仕方ないと諦めている。それ故にもし最後まで読んでもらえたのであれば、かつなんとなく内容を理解してもらえたならこれに勝る喜びはないだろう。

 『グラスリップ』はアニメ屋だからこその発想が冴えわたっているアニメだと私は思う。映像(透子)と音声(駆)が巡り合うという設定も、映像に音声を重ねるアニメ屋の発想だと思うし、ハーモニーショットによって「モニターの故障」を演出していることで、「目に映るもの」と「その本質」の差異を現すのもアニメだからこそできることではないかと考える。もちろんこれらは私の想像にすぎないし、西村監督にそんな意図があったかどうかは言ってくれないからきっと分からない(まあ下手にベラベラしゃべられてもつまらないからそれでいいのだが)。

 『グラスリップ』は難解なアニメだというのは否定できない。理解ができないというのもしょうがない。しかし私は理解ができないなりに、このアニメがなにかとんでもないことをしているという実感を持った。見返すたびに、このアニメが内包しているものが一つ、二つ…と自分に開示されていく。そのことで自分の実感に『グラスリップ』は応えてくれる。こういうアニメは自分にとってはじめてである。この記事で書き連ねたものは、『グラスリップ』が自分に開示したものたちの一片にすぎない。

 まだ、全てが開示されたわけではない。自分はそう感じている。

*1:2016年6月

*2:駆の「声」に対する認識を方向づけた要員は自分の将来への不安といえる。詳しくは過去記事沖倉駆はなぜ町を去ったのか?(沖倉駆は飛べたのか?) - ジョイナスブログⅡ

*3:ハーモニー演出のことである