ジョイナス最後の戦い

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[ジョイナス(Chimpo_Joinus)が選ぶアニメ・オールタイムベスト10]2位:グラスリップ

2:グラスリップ(2014)

胸の中でざわめいてるオカンが好きな朝ごはんの名前を


[Official Video] ChouCho - Natuno Hito Kiminokoe - 夏の日と君の声

日差しに遮られて私はまだ知らない。

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M-1グランプリ2019が面白かった。とりわけ優勝したミルクボーイの「コーンフレークは生産者さんの顔が浮かばへん」というフレーズには腹を抱えて笑ってしまった。コーンフレークの生産者は存在する。しかしミルクボーイの言う通り、彼らの顔は確かに浮かんでこない。これは大発見だ。ただ笑えただけでなく、夜空に見知らぬ星を見つけたような感動すらあった。彼らの見せた4分間は漫才であり、啓発でもあった。

「知る」「気付く」ということは、私たちの心を大いに動かす。たとえそれが取るに足らないようなものに思えたとしても。だから「コーンフレークの生産者」という私たちの知らない———しかし確かに存在する星を私たちに示してくれたミルクボーイは凄い。

しかしである。いくら感動を与えてくれたといっても、あの小太りで角刈りの芸人を抱きたいとは思わないだろう。彼らのネタを見て、あの里崎智也みたいな顔の芸人に恋愛感情を抱くとしたら、もっと別の要素ないしはストーリーが必要ではないだろうか。

つまり私が何を言いたいかというと、啓発は恋愛にダイレクトに繋がらないのではないか、ということだ。

オカンが言うには、それは恋かなって

グラスリップ」における沖倉駆と深水透子の恋は不思議なラブストーリーだ。大方の視聴者は、なぜ透子が駆に惹かれていったかを理解できないだろう。

駆は「君と同じものを見た」*1、「透子の悩みの一部を解決できる」*2といい、自分と同じ能力を持つ透子に近づいてくる。しかし駆は透子の悩みを解決するどころか、透子たちの人間関係の不和を呼び込むこととなる。それなのに透子は駆に惚れていく。場を引っ掻き回しているようにしか見えない駆を好きになる心理は俄かには理解できないかもしれない。

ただ駆は透子に対して何もしていないわけではない。彼は校庭で透子と顔を合わせた時から、絶えず彼女を啓発し続けている。駆と出会わなければ、透子は自分がニワトリの幸せを勝手に決めつけていたことに気付かなかっただろう。また、彼が教えてくれなければ、普段見ている幻覚が「未来」*3だと知らないままだっただろう。私たちがコーンフレークの生産者の顔が浮かんでこないと気づいたとき知ったあの感覚を、透子は駆から繰り返し味わされるのだ。

視聴者はなぜか駆が透子を啓発することを見逃してしまう。考えるに、啓発が恋愛につながる実感が視聴者になくてピンとこなかったのではないだろうか。その結果、駆が引っ掻き回す印象しか残らなかったのではないだろうか。

正直なところ、啓発が恋愛につながるという感覚は私にもない。誰かに啓発された体験はあっても、その相手に恋愛感情や性的欲求を抱いたという記憶は一切ない。ひょっとしたら、こうした感情を知らないのは私だけかもしれないが……。

仮に啓発が恋愛につながるのならば、もうひとつくらいストーリーがほしいと私は考える。例えていえば挫折したエリートが新興宗教の教祖に傾倒していくような、啓発を求める側の強い動機を求めたくなる。その点で透子と駆のラブストーリーは物足りない。没入感が欠けてしまうのは否めない。

よってこれから「グラスリップ」を見る人、あるいは見直そうという人は本作品のラブストーリーに期待しないでほしい。人様に「こう見ろ」とか「ああ見ろ」とか言っても仕方がないと思うが、強いて言うなら、この作品を通じて恋愛の疑似体験を求めたり、理想の恋愛を求めたりしないことがこの作品と上手く付き合うコツなのではないかと思う。

そして、どうしてもこの作品のことが分からないのなら、当ブログの記事「分かりやすいグラスリップ」を読んでほしい。だいたいの疑問には答えられているはずである。

そして気が向いたら、作中で名前があがる、アルベール・カミュの『シーシュポスの神話』、短編集『追放と王国』の一編「不貞」を読むといいだろう(ダイマ)。

どんな作品でもいえることだが、作中で名前が出ている作品に触れて、そのうえで再び見返せば、以前では感じられなかったような味わいを実感できる。コーンフレークに牛乳をかけて食べるようなものだ。

joinus-fantotomoni.hatenablog.com

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 イチオシの回:「流星」(13話)

いろいろ考えたが、1番好きな回を素直に選ぶとしたら、この作品で1番好きなシーンと3番目に好きなシーンが描かれた最終回しかない。

自分がこの作品で3番目に好きなシーンは、カゼミチで高山やなぎが「いいことばかりじゃないのよ、気付くってことは」と駆に言う場面だ。駆は即座に「井美雪哉のことか」と気付く。

そして自分がこの作品で1番好きなシーンは、最後に透子が井美雪哉の指摘によって6羽のニワトリの中でジョナサンだけが哲学者の名前ではないということを知る場面だ。

この2つのシーンは2つで1つのセットのようなものだ。前者はやなぎと駆の和解であり、後者は雪哉と透子が自然な関係になったことを示すシーンである。ぎくしゃくした人間関係が「雪解け」に向かっていることを示す場面で、永宮幸と白崎祐を含めた6人の今後を思わせるような描写になっている。

そして後者は、前者で問われた「いいことばかりじゃないのよ、気付くってことは」のアンサーになっている。駆の「唐突な当たり前の孤独」を理解した透子であったが、結局のところ彼女は知らないことだらけ。それでもなお、透子は以前にのように明るく———そして以前にはない力強さを伴って「何があっても、未来の私が全部解決してくれますように」と宣言する。

何度見てもこのシーンは私の胸に強く響く。不条理な体験を経て、透子は「気づくことは、いいことだ」という答えを得た。この答えは多くの視聴者がこの作品を見捨てた中、この作品にずっと向き合ってきた私の救いでもある。「グラスリップ」を視聴したという体験は、私にとっての『追放と王国』なのかもしれない。そんなことを13話を見終えるたびに考えてしまう。

*1:アニメ1話

*2:アニメ2話

*3:実際は未来でもなんでもなかったわけだが…