飛び回るニワトリのジョナサンと彼に翻弄される深水透子の姿を見て、母・深水真理は夕飯に水炊きを作ることを思いつく。
しかし真理はシチューが食べたいという透子の提案を「暑いから」という理由で却下している。グラスリップは夏が舞台のアニメ。「暑いから」とシチューを作ることを拒んだ母親が水炊きを作る。不合理な翻意と言わざるをえない。
夏なのに「熱いもの」を欲しがる人たちは作中で他にも登場する。
10話「ジョナサン」では沖倉駆がカゼミチでホットコーヒーを注文する描写が見受けられる。「真夏にホットコーヒーなんて大人だねえ」と評する白崎祐。
そんな祐を含めたいつものメンバー4人も、最終回でマンデリンを注文する。
やなぎに駆が「未来のかけら」について説明するシーン。ここで二人が飲むのもホットコーヒー。
とりわけ終盤に多々見られた真夏に"熱い"ものを口にするという描写。これにはどんな意味があるのだろうか。
夏に飲むホットコーヒー。彼らが夏の真っただ中で"冬"を感じている証拠だろう。
ここで自分が示す"冬"は12話「花火(再び)」で映し出されたような雪の世界、つまる話が「孤独」や「疎外感」の象徴として作中で描かれた"冬"のことだ。
8話「雪」以降、透子の目に見えるようになった冬の情景。その正体が駆の「唐突な当たり前の孤独」を象徴する「未来のかけら」であることは言うまでもないだろう。"冬"が孤独や疎外感に結び付けられている。
冬の情景は透子には見えるが(自分のことなのに)駆には見えない。自分には見えて相手には見えないという事実が透子を駆と断絶する。そして「花火(再び)」の異世界で透子は「自分は相手が見えるが、相手は自分が見えない」という状況に直面する。このようにして深水透子も「孤独」を体験したのだ。
透子とは対照的に「自分には見えないが、相手には見える」というパターンが永宮幸で、彼女は透子のように「未来のかけら」を見ることができない。しかし駆には見える(だからダビデが嫌い)。そして彼女は病弱なせいで他の4人と同じようには行動できない(病欠したり、車で山頂に行ったり)。"不能さ故の疎外"を経験し続けている。
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"不能さゆえの疎外"というのは井美雪哉にも同じことが言える。彼も怪我のせいで他の陸上部員たちと同じように走ることができない。記録会や合宿への参加で雪哉は周りとの差を実感することとなる。
「雪哉のことならなんでも気付く」と言う高山やなぎ。しかし彼女は雪哉の急な合宿参加には気付けなかった。同じように透子の「未来のかけら」や幸の透子への執着にも気付かずに過ごしていた。普段接している人たちが、自分の知らない一面を隠し持っている。やなぎの洞察力をもってしても、察することができない領域が存在する。その事実はやなぎにとって「新しい自分になる」と決意させるほどのショッキングなある種の「疎外」だったのではないだろうか。
祐にもやなぎと同じことが言える。幸のダークサイドに直面することで、彼は自分と相手との間にあった壁の存在をはじめて意識した。彼は幸のことを全く理解できてなかったのだ。
彼の喫茶店が溜まり場になっていることや登山や花火などのイベントでも先導的なことから分かるように、祐はグループ内で一番"みんなで"行動することに拘っているキャラクターだ。それ故に一番"孤独"とは縁が薄いとも言える。そんな祐が"一人で"山登りをするのが8話。それは山を登る苦しみや登頂の達成感を誰とも分かち合えない孤独なもの。他の面々と比べると最もシンプルな形の「孤独」だが、シンプルなだけに分かりやすい。
このように駆以外のキャラクターもそれぞれ違った形で「孤独」や「疎外」を体感し、向き合っていくこととなる。言い方を変えれば駆のように心の中に"雪"を降らせる資格を得たといえる。
11話「ピアノ」の終盤。下山する幸と祐、ジョギングをするやなぎと雪哉に対して雪風が吹く。そして透子(と視聴者)は「唐突な当たり前の孤独」の雪世界に転移していくこととなる。
ここらへんでピューッっと吹く
幸たちの前に出現した雪風は駆の孤独を象徴する雪かもしれない。透子の目にしか映らなかったものが肥大化し、幸たちの身近なところまで侵食してきた。そう解釈するのもアリだろう。
ただ自分はこう捉えたい。駆の"冬世界"が侵食したというよりは、孤独や疎外感に向き合った幸たちの"冬"が視聴者に対して具現化された、と。
12話「花火(再び)」は駆の「唐突な当たり前の孤独」を透子が体験する回で、この回における冬の花火の世界は駆の孤独を反映した世界だ。しかしながら駆の心象だけを反映した世界ではない。
透子を無視した幸たちは実は世界内における幻影で、(幻影世界における)本物の幸たちは神社に集まることができず、それぞれパートナーと別の場所で花火を見ている。これは11話までの幸祐・やな雪カップルが距離を縮めていく展開にリンクするものだが、駆には知るよしのないこと。それ故に12話の世界を「駆だけの心象世界」と断じるのは不自然で、幸たち4人の心象も反映されていると考えるべきだろう。つまりあの雪の世界は駆のものであると同時に幸たちのものでもあり、幸たちの心の中にも駆同様"冬の世界"があるのだ。
グラスリップのキャラクターたちは季節は夏なのに、心の中では"冬"を感じているというのがこの記事の着地点。深層心理に"冬"の世界があるから「真夏にホットコーヒーを飲む」という行動に繋がってくるというわけだ。彼らの魂は"冬"を感じていて、温もりを求めている。
それ故に前述した深水真理の水炊きをめぐるという不可解な翻意も、"冬"を感じたからだと推察できる。ニワトリと戯れる娘・透子の姿を見て、若かりし日の心の中で雪が降っていた自分を思い出したのだろう。
最終回で真理はいつも一生懸命な健に「絆されちゃった」と語る。一生懸命な透子に駆が絆されたのがグラスリップ。透子と駆は深水夫妻がかつて通った道をなぞっていたと言える(そして沖倉夫妻のような関係に移行していくのだろう)。
深水真理もかつては心の奥底に"冬"を抱えていた。そんな彼女を孤独から救ったのがニワトリの模写に夢中になる真理に2時間待たされても「今来た」と言ってしまえるような男だった。夫のように一生懸命な娘とニワトリの姿に自分の青春時代の"冬"を思い出し、衝動的に熱い水炊きを作りたくなった。というのが彼女が夏なのに水炊きを作った理由なのかなと。
夏の水炊きとホットコーヒーは、母親たちと若者の世代をさりげなくリンクさせていた。世代や事情が違っても、孤独や疎外感を経験した人たちは同じものを求めるんだというのがこの作品における水炊きとホットコーヒーの意味だと自分は思う。