ジョイナス最後の戦い

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グラスリップはなぜつまらないのか

※2025年8月17日に大幅に改稿しました。

エンタメとして破綻している

 これまで「グラスリップ」を50回ぐらいを好きで視聴してきたが、冷静に考えて、「グラスリップはつまらない」という評価は一部肯定せざるをえない。

 まず一般的なエンタメ作品は、視聴者が作品に没入するように作られている。しかしながら「グラスリップ」はあらゆる意味で、没入感を無視した内容となっている。

 その最大の原因は、深水透子と沖倉駆の恋愛にある。通常、エンタメ作品というものは視聴者が主人公に感情移入できるように組み立てられるものであり、そういった意味では、主人公が恋愛感情を抱く相手は視聴者も好感を抱けるよう描く必要がある。本作の主人公の透子は自分と同じ能力を持つ転校生・駆に惹かれていく。ところが視聴者からしてみれば、駆に魅力を覚えることは難しい。なぜなら、駆は作中での起きるトラブルの原因であり、透子を助けるどころか、火に油を注ぐような言動をする。また人付き合いにも消極的である。およそ好感が抱けるようなキャラクターではない。

 しかしながら、透子の視点から見ると、駆は彼女に未知の視点と感動をもたらしてくれる存在である。駆と出会わなければ、透子は幻覚が「未来」を示していることに気が付かなかった*1。また彼は彼女の知らない町の景色を教えてくれた。この点を見過ごすと、透子が駆に惹かれていく理由は理解できないだろう。ただ本作は視聴者に丁寧な説明をしないため、こうした見落としが起きても致し方ない。もっとも、仮に理解ができたとしても、視聴者の悪印象をこれで塗り返せるかどうかは微妙である。

 そして視聴者は駆に好感を抱けぬまま、物語は駆の「唐突な当たり前の孤独」に焦点を当てていく。私からしてみれば、終盤の描写は「こういう経験をしていれば、そりゃあんな性格になっちゃうよね」といった感じの納得感があった。しかしながら、彼の人格形成に納得できたところで、好感まで抱けるというものでもない。駆に良い感情の持てぬまま、話がよく分からない感じで終わってしまった……という人が大方ではないだろうか。主人公の恋人となるキャラに好感を抱けないというのは、恋愛をテーマとしたエンタメ作品としては致命的である。その上内容もよく分からない「つまらない」という感想に至るのは当然としか言いようがない。

注文の多いアニメ

 ここまで"エンタメ作品として”という前置きで「グラスリップ」を評してみたが、そもそも一般的なエンタメ作品として「グラスリップ」を捉えようというのが大間違いである。こんな作品をTVアニメとして市場に出すことが間違いだったりするが、それはあちら側の問題である。

 そもそもの前提として、「グラスリップ」は再視聴と考察をすることで、ようやく楽しむことができるアニメだということは断言しておこう。しかし、口で言うほど容易いことではない。

 上記のnoteは、本作の「狙い」について解説した記事である。興味があったら読んでほしいが、本稿でも簡単に触れてみる。

 「グラスリップ」とは「視点の変化」をテーマにした作品である。その上で重要なモチーフとなっているのが、作中で展示されているマウリッツ・エッシャー(1898-1972)の「昼と夜」(1939)である。同作品は視点を変えることで見える風景が変わるトリックアートである

 「グラスリップ」は 「昼と夜」をモチーフとして、人々の視点の違いを描く。これが端的に表現されているのが12話「花火(再び)」である。1話「花火」における透子と駆の立場は逆転し、透子は花火大会で「唐突な当たり前の孤独」を経験する。花火大会に対する2人の温度差が「夏」と「冬」としてここでは対照的に表現されている。

 本作は「意味不明」と揶揄される作品である。しかしながら、意味が分かった瞬間に、本作の描写は全く異なる見え方をする。ここに本作の1つの醍醐味がある。これらを一度の視聴で全てを理解するのはおよそ不可能だ。よって再視聴と考察が必須なのである。

 とはいえ、本作の描写の大部分は繰り返し観るだけでは分からない。理解するうえで、コード(暗号)が必要なものがあり、それらの意味を適切に捉えたうえでようやく描写の意図が明瞭になる。ここでいうコードとは作中に名前が登場するいくつかの文芸作品、思想家のことである。文芸作品の内容や思想家の作品・言動を踏まえたうえで、理解ができる描写がいくつか存在する。

 「グラスリップ」は決して意味不明なアニメではない。ただ意味を理解するうえで、注文の多いアニメなのだ。真面目に本作に向き合おうとしたところで、「注文」の多すぎて投げ出してしまうだろう。これが本作の真に厄介な点である。

 本作が文芸作品や思想家の知識を要求することから、「「グラスリップ」を理解するうえで教養が必要」と思う人もいるかもしれない。しかしながら、本作に向き合ううえで必要なのは教養以上に作品の注文にとことん付き合う根気である。知らないなら知ればいいだけだし、読んだことがないなら読めばいい。

 どちらかといえば、半端な教養は本作と向き合ううえでノイズになる。自分の関心事を通して作品を観ようとすると、かえって目を曇らせてしまうかもしれない(これは別に「グラスリップ」に限ったことではない)。

 「グラスリップ」の後半部分は、他者に対する臆見を反省し、他者の理解に努めようとするものだ。臆見とは作中でいえば「ジョナサンって悩みがなくていいよね」、「お人形さんのようで」、「透子ってほんと分かりやすい」といった感じの素朴な決めつけであり、自分の都合よく、他者を捉えた結果ともいえる。

 自分の都合よく理解できない、ということは自分を束縛することである。「俺にとってこの作品はこうだ!」と好き勝手に語れないことでもある。誤読が許されないとまでは言わないが、誤読を開き直ってしまうのは、この作品の趣旨に明らかに反しているだろう。他者に真摯に向かう作品の方向性を鑑みると、視聴者側もできるかぎり作品に奉仕することが求められていた、といえる。

 とにかく、こうした要求と、自分のエゴとトレードオフになってしまうのならば、それは窮屈だし、きっと「つまらない」ことだろう。 

*1:実際には「未来」ではなかったが……