話題になっていたので読んだ。現在進行形でクリエイティブな道にいる人、またはかつて志した人たちには刺さる内容だと思う。
メインで描かれるのはクリエイター同士、クリエイターとファンとの関係性。漫画家を描くことに心が折れていた藤野は、京本に才能を承認されることで立ち直る。一方ひきこもりの京本は藤野の手によって外の世界に踏み出す。2人の関係は私が世界で一番好きなアニメ「true tears」(以下tt)の仲上眞一郎と石動乃絵を彷彿とさせるようだった。ttも自分に自信のないクリエイター志望の少年と(精神的な)引きこもりの少女の交流を描いた作品だ。
こういう話のアウトラインに私はどうも弱い。
自分語りで恐縮だが、かつての私はギター少年だった。人生で一番頑張ったことは間違いなくギターの練習だったと思う。ただ、絶望的に才能がなかった。どれだけ練習しても才能のある周囲との差が開いていくばかりで、焦りのあまりイップスに陥って人前でロクに演奏もできない時期もあった。自分に見切りをつけることもできず、意地だけでギターを続けたが、結局認めてもらえたのは努力だけだった。本当に惨めだった。
藤野や眞一郎は私のなれなかった姿だ。彼らを見ると私はいっそう惨めな気分になる‥‥と思いきや意外とそうでもない。机に向かう藤野の背中や「絵本が描けたのは乃絵がいたからだ」と声を震わせる眞一郎を見ると*1、自分もこうありたいと素直に思う自分が存在する。
‥‥「ルックバック」の話に戻そう。
終盤では、漫画家にならなかった藤野の姿を描いた「創作」*2が挿入される。「創作」は京本の死に打ちひしがれる藤野の妄想なのか、はたまた超越的な描写であるのかは判別がつかない。ただ思うに、この世のありとあらゆる創作物がそうであるように、あの「創作」は京本の死を遡及的に無化するようなものではないのだろう。何をしたところで死は覆らないのである。
あの「創作」が京本の死に対して無力で、無意味なものであるからこそ、「描いても何も役に立たない」と打ちひしがれた藤本が、再び机に向かうシーンは感動的だ。不条理を受け入れ、歩みを進める人の背中。まさにカミュ的な勝利である。
それでいいんだ(玉置浩二)。
不条理と不条理への勝利。あとの細かいことはどうでもいい。物語はこれさえ描けていればそれでいいのだ。