ジョイナス最後の戦い

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[ジョイナス(Chimpo_Joinus)の競馬予想ブログ]ジョイナスのアソコだけの話「細江純子のことを考えてほしい」

ここ最近、細江純子のコラムはウーマナイザーのことばかり。

ウーマナイザーとは何ぞや?と思われた方もおられるでしょう。言ってしまえば女性向けの性玩具、つまりバイブレーターの類です。

ウーマナイザーは画期的な性玩具です。通常のバイブレーターはク〇トリスに直接触れて刺激しますが、ウーマナイザーはクリト〇スに直接触れず、吸い上げることでオーガズムに導きます。

Amazonの商品説明を読んでいるだけで〈クリを吸い上げられるってどんな感覚なんだろう‥‥〉とゾクゾクしてしまうのですが、哀しいことにワタシはオトコ。孔雀や鳩や、ましてや女にはなれない。男に生まれてしまった以上、どれだけ頑張ってもクリ〇リスで絶頂することはできません。

別に女性になりたいわけではないのです。女性でなければ味わえない快感がこの世に存在する。それがただ許せないだけ。つまりワタシは嫉妬しているのです。全世界の女性に。

しかしである。全世界の女性には当然細江純子も含まれます。細江純子のことを考えると、ワタシの中の嫉妬の炎が静かに消えていくのを感じます。なぜ?そんな自身の理解不可能な心境を考え、分析した結果、細江純子に対する畏れが女性のクリイキへの嫉妬を上回ったという結論に至ったのです。

ひとりきりのクリスマス・イブ。細江純子はウーマナイザーを買うでしょう。嫉妬や怒りに狂いそうになったときは、ウーマナイザーを使用する細江純子のことを考えてください。これぞ、アン‥‥アン‥‥ガーマネジメント‥‥ナンチッテ。

さて、ホープフルステークスはヴェルトライゼンデに注目します。広いコースよりも小回りの中山の方が合っていると思います。

それでは皆さん、新年はウインズ名古屋でお会いしましょう。ジョイナスでしたぁ。

[ジョイナス(Chimpo_Joinus)が選ぶアニメ・オールタイムベスト10]4位:GJ部

4:GJ部(2013)

GJ部」というアニメは様々な肩透かしをしてくる作品だ。学園祭の準備と片づけを描きながら、肝心の学園祭の最中の描写は一切ない。水着や浴衣を用意しても、プールやお祭りには行こうとしない。前戯に力を入れて、本番はおざなり、といったもどかしさがある。

そして「GJ部」にはハーレム美少女アニメにありがちパンチラやラッキースケベといった露骨なお色気描写がない。代わりにフェチズムを感じさせる描写を強く推し出す。代表的なものが「髪梳き」描写で、キョロに髪を梳かれるたびに悶えるヒロインたちの表情は私たちに愛撫を連想させる。

髪梳きにエロスを見出す発想は革命的と言わざるえない。とはいえ、ここに直接的な性描写を並べてしまったら、せっかくの革命的フェチ描写も霞んでしまうだろう。だからこそ、本番はおざなりにしなければならない。

GJ部」の肩透かしは合理性の産物なのだ。見せたいものを強調するために「本番」らしきものを放逐する。こうした方法論が徹底されているアニメである。

GJ部」では恋愛面においても肩透かしが敢行されている。監督の藤原佳幸

「京夜はそれぞれのキャラと仲良くなっているんですけど、付き合うとかそういう話じゃなく。全員とふわふわと幸せな時間を過ごして、でもそれは永遠じゃなくて去っていく先輩が寂しいなっていうことを共感してもらいたくて……」*1

と語る。たしかに主人公・四ノ宮京夜(通称キョロ)はヒロインたちにドギマギすることはあれど、彼女たちに恋愛感情を抱く素振りを見せない。

ヒロインたちの方はどうだろうか。原作の卒業式の回では天使真央(CV.内田真礼)がキョロにキスをする場面があるが、アニメでは当該のキスシーンは省かれている。「恋愛には振らない」というアニメスタッフの強い意思表示だ。これもキスシーンを期待した原作ファンからしてみれば肩透かしだったに違いない。

とはいえ、恋愛を匂わせるような描写が一切ないというわけでもない。

「お姉ちゃん、四ノ宮君が調子に乗るからチョコあげないんだって言ってましたけど、あれ嘘です。照れてるだけです」

「え」

「本当は…」

(11話「協・定・解・除」より)

姉の照れと強がりを天使恵がこっそりキョロに指摘する。「本当は…」に続く言葉を、私たちは否応なく考えさせられる。

また11話でキョロは天使家のメイドの森さんと彼女の進退を賭けた勝負をすることとなる。「負けたら四宮家のお世話になります」という森さんに、キョロはあっさり勝ちを譲ってしまう。そんなキョロに、森さんはこの一言。

「いくじなし」

(11話「協・定・解・除」より)

恵は素直になれない姉と鈍感なキョロに業を煮やしたように見えるし、森さんも草食男子的な言動をなじっているように思われる。そしては極めつけは「GJ部@」における真央の発言。

「草食動物のお前も、アメリカでは肉食がルールだからな」

(GJ部@「GJ部NYに行く」より)

このようにラブコメ的な描写を避けているようで、キョロはそれとなくプレッシャーをかけられている。それでもうんともすんとも言わないキョロの反応はヒロインたちにとって肩透かしでしかない。要するに、それとなく恋の予感を紛れさせているものの、どれも「本番」に至らないまま肩透かしされる。それが「GJ部」の流儀なのだ。

GJ部」には肩透かしな内容の中に、それとなく散りばめられたエロスやもどかしい色恋が散りばめられている。婉曲的なエロスや青春の痕跡を確かめるように注意深く見たくなるようなアニメだ。だから合う人には合うだろう。私はこういうのがすごく好きだ。

イチオシの回:「妹が4人いる!?」(6話)

「こんな可愛い妹と街を歩けてるんだぞ。すっげーうれしいだろ?」

(6話「妹が4人いる!?」より)

真央がキョロの妹のふりをしてファミレスでお子様ランチを食べる回。妹のふりをしてしれっとキョロと手をつなぐ真央は必見である。これも真央の不器用なアプローチだと思ってみると微笑ましい。

そして2人はキョロの本物の妹・霞(CV.木戸衣吹)と偶然出くわしてしまう。本物の妹と偽物の妹の修羅場は、木戸衣吹のデビュー作「お兄ちゃんだけど愛さえあれば関係ないよねっ」を姫小路秋子と鷹ノ宮ありす(CV.諸星すみれ)を彷彿とさせる。そして諸星すみれは本作では真央の妹・聖羅役で出演。思わずニヤリとしてしまうようなキャスティングである。

次の7話では「中二病でも恋がしたい!」で内田真礼と共演した上坂すみれが後輩・神無月環(通称タマ)の役で登場する。本作で上坂は「凸守の声で演じて欲しい」という直球過ぎるディレクションを受けたという。こうした遊び心のあるキャスティングも本作の魅力だろう。

ただキャストで一番驚かされるのは、ジェラルディン・バーンシュタイン役の葵わかなだろう*2。EDを見ると木戸衣吹諸星すみれの間に後の朝ドラ女優の名がクレジットされている。分かっていてもたまげてしまう。

*1:別冊Spoon. vol.36 p10

*2:OPも歌っている。彼女がももクロの〇番煎じみたいなアイドルユミットに所属していたことを知っている人はどれだけいるのだろう

[ジョイナス(Chimpo_Joinus)が選ぶアニメ・オールタイムベスト10]5位:氷菓

5:氷菓(2012)

原作の「古典部シリーズ」はビターな印象を受けるエピソードが少なくない。たとえば原作の「正体見たり」はきょうだいに憧れる千反田えるが善名姉妹の良好ではない関係にショックを受ける場面で締め括られる。「手作りチョコレート事件」においても伊原摩耶花がえるを利用したという疑惑が提示されて終わる。

一方のアニメ版は原作と比してキャラクターを悪く描かないように配慮がされている。上記のエピソードは後味が悪くならないように改変され、「女帝」入須冬美に至っては出番が追加され、仮面の下の素顔が伺えるようフォローされている。

私はどちらかといえば原作のテイストの方が好きだ。極端なことをいえば人間をできるだけ(ほどよく)悪く描いてほしいと思っている。

古典部シリーズ」は折木奉太郎の一人称で描かれていて、事件を通して奉太郎の不干渉主義が問われる。「省エネ」をモットーに生きていた奉太郎は、人付き合いを簡略化してきたせいか他人への関心がいまいち薄い。そんな不干渉的な自分と向き合い、その修正を余儀なくされていくのがこのシリーズの筋である。

とはいえデタッチメントからコミットメントに転向してすんなりハッピーになれるのなら面白みがない。人間の嫌な部分を描いて不干渉主義にも理があるように思わせたほうが、奉太郎の揺れ動く心理を読み進めていくうえでより緊張感が味わえるだろう。そこがビターな原作の魅力だと自分は考える。

そう思うとアニメ「氷菓」は甘々な印象だが、これはこれで良い。何が良いかと言えば千反田えるが可愛いのが良い。京都アニメーションが描く千反田えるは悪魔的に可愛い。そしてえるの悪魔的な可愛さにたじろぐ折木奉太郎もまた可愛い。

原作のビターさは後退し、表に出てくるのは青春の甘さ。1話でえるの可愛さと好奇心に振り回されることを保留しようと試みた奉太郎が、丸1年保留を続けてやっと自分の想いを自覚する。拗らせた童貞の青春への抵抗も、コーヒーカップの底に沈んだ砂糖くらい甘い。

原作の毒を抜くような改変は、甘い青春には人の恋路を邪魔するような後味の悪いエピソードは野暮だということなのだろう。原作がデタッチメントとコミットメントの絶え間ない綱引きだとすれば、アニメ版は薔薇色が勝つように仕組まれた出来レースだ。出来レースと分かってしまうと萎えてしまうものだが、知ってもなお「出来レースでもいいか」と思えてしまうのは千反田える嬢の可愛さ故だろう。奉太郎と共にえるの可愛さに屈しよう。それもきっと悪くない。

イチオシの回:「遠回りする雛」(22話)

「遠回りする雛」というのはメタファーだ。千反田えるの宿命を示すものであり、折木奉太郎の恋を示すものでもある。

原作ではラストシーンは千反田家の庭先での出来事となっている。えるは千反田家と千反田家を囲む地域一帯を指し「ここがわたしの場所です」と奉太郎に告げる。作中で描かれた生き雛の行進のように、千反田えるはどのような進路をとっても「千反田家の跡取り」というゴールが決まっている。こうした彼女の宿命に則ったロケーションがなされているといえよう。

一方アニメでは狂い咲く桜の下に舞台が移っている。生き雛の行列が歩く間、奉太郎が見たくても見ることができなかった桜の下の千反田えるが、奉太郎に微笑みかける。通行禁止になった長久橋が、奉太郎にこれ以上の「迂回」は不可能であることを示す。もう恋から逃げることはできない。奉太郎の心情に沿ったとても粋な演出だ。

舞台が変わるだけで印象がガラッと変わる。それを思い知らされる瞬間が自分はとても好きだ。原作では悲壮感に満ちた「わたしはここを最高に美しいとは思いません」というえるの発言も、狂い咲く桜の下では「でもあなたは美しいと思っているでしょう?」という反語となる。どちらがいいかと聞かれれば、この場面に関しては原作よりもアニメの方が遥かに好きだ。

京アニ解釈の「遠回りする雛」を見ると、どうしても「二人の距離の概算」以降のメランコリーな古典部シリーズがアニメでどう描かれるかが気になってしまう。千反田えるの為に走る折木奉太郎が、どのように描かれるか興味が尽きない。

でももう叶わぬ夢だ。「全ては主観性を失い、歴史的遠近法の彼方で古典になってしまう」というが、客体化されぬ願望は胸の内からいつか消えていく。古典すらなれない。

[ジョイナス(Chimpo_Joinus)が選ぶアニメ・オールタイムベスト10]6位:ギャラクシーエンジェル

6:ギャラクシーエンジェル(2001)

放送当時は「カードキャプターさくらのスタッフが送る美少女アニメ」と銘打たれていたが、CCさくらとは似ても似つかない。*1そもそも「美少女アニメ」という表現も適切ではない。萌えアニメのナリをした「こち亀」と言った方が正しいだろう。

メインのエンジェル隊員5人たちは軍人だが、5人中3人が両津勘吉みたいな自己中心的な拝金主義者。だからこのアニメは「こち亀」のように基本は因果応報ヲチが多いのだが、ヲチを投げることも珍しくない。

3期以降はヲチどころか萌えアニメのナリすら投げ捨てているといっても過言ではない。やりすぎて、作中1番人気のキャラの頭がツルッパゲになってしまうほど。それどころかキャラが木になったり、昆布になったり、死んだのに何事もなかったのよう生き返ったり‥‥エンジェル隊は美少女どころか人間をやめてしまっている。見返すと「よくこんな連中に当時のヲタクは萌えられたな」と呆れてしまう。*2それぐらい滅茶苦茶で、痛快なカオスアニメだ。

イチオシの回その1:「機内食(具沢山弁解カレー)」(2期第7話Aパート)

エンジェル隊員たちが紋章機の中で任務失敗の責任をひたすら擦り付け合うという内容。醜い内輪揉めに苦笑を余儀なくされた視聴者に、史上最低の和解ヲチが待ち受ける。評判のいい「数珠つなぎ手打ちそばつなぎなし(3期9話Bパート)」「サインはブイヨン(3期16話Aパート)」あたりと比べても引けを取らない回だと思ってる。

イチオシの回その2:「Final dish REBECCA <前編+後編>」(3期第26話)

ギャラクシーエンジェル」はギャグアニメなのだが、時折何かを思い出したかのように*3シリアス回をねじ込んでくる。そして3期ではなんと最終回に、しかもシリーズ初の長編としてシリアス回が投入された。それが「Final dish REBECCA」である。

内容はエンジェル隊レベッカという脱獄囚を捕らえる任務が下されるというもの。レベッカの正体を探るうちに、500年前に軍が隠蔽した不祥事が明らかになるという展開は普段のGAでは想像がつかないくらい重々しい。いつもならエンジェル隊が不祥事を起こして軍に迷惑をかけるのに‥‥。立場がガラッと変わってしまうだけに、印象深い回だ。

 

*1:パロディはある

*2:原作(ゲーム)のエンジェル隊はギャルゲヒロインとしては問題ないキャラになっている。

*3:原作は比較的シリアスなスペースオペラ

[ジョイナス(Chimpo_Joinus)が選ぶアニメ・オールタイムベスト10]7位:おねがい☆ツインズ

7:おねがい☆ツインズ(2003)

昨年、旧制松本高校を訪れた。「おねがい☆ティーチャー」、そしてその続編「おねがい☆ツインズ」で主人公たちが通う木崎高校のモデルである。かれこれ15年越しの聖地巡礼である。「縄文おやき」も食べた。いつか木崎湖周辺にも行きたい。

今ではありきたりになってしまった「ご当地アニメ」だが、アニメと現実が地続きになっていることに当時の私は深い衝撃を受けたものだった。

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さて、公平に見れば「おねがい☆ティーチャー」の方が「おねがい☆ツインズ」よりも名作だと思う。(都会から見て)時が停まったような地方の風景と宇宙人の組み合わせが「停滞/加速」という作品のテーマにマッチしていた。20年近く前の作品になってしまうが、もっと顧みられるべきアニメだと思う。

舞台と物語のシナジーという点で言えば続編の「おねがい☆ツインズ」は正直物足りない。北アルプスの麓の田舎町は、未成年の男女の危うい共同生活をご都合主義的に許容するユートピアでしかなく、主人公の神城麻郁と彼の妹と名乗る宮藤深衣奈小野寺樺恋との関係も、前作の桂とみずほの関係が森野苺や銀河連盟の介入で破断しかかったことと比べれば周囲からの干渉も弱くどこか緊張感に乏しかった印象を受ける。

ただどちらが好きか、と聞かれれば私は迷わず「おねがい☆ツインズ」と答える。このアニメの良さは不干渉主義だった麻郁が自分と同じ境遇の2人のヒロインに対して心を動かされ男気を見せていくところにある。「「他人かもしれない」が「肉親かもしれない」以上見捨てられない」というヒロイズムを麻郁は示す。これはそれぞれ絶望を抱えた彼女たちが、麻郁に惚れてしまう理由としては十分すぎるくらいで、あとは彼らが年相応に恋をし、微妙な関係性の中で葛藤する姿を描くだけで足りてしまう。

私論だが、いいラブコメはヒロイン以上に主人公が魅力的に思えるものだと思う。私たちは主人公のことを好きだから、主人公のことが好きなヒロインたちを好きになれる。というか特定のヒロインに肩入れしすぎるラブコメの読み方って危険ではないか、と思う。1歩引いたところからニヤニヤ見るくらいが丁度いいラブコメの見方だと自分は考える。

とにかく、魅力的な主人公が恋愛をすればそれで十分なのだ。そう思わせられるのが「おねがい☆ツインズ」という作品だ。

イチオシの回:「ぬけがけしないで」(第9話)

おねがいシリーズ*1恒例の軽井沢回。 3人とも他の2人とはぐれてしまうが、軽井沢の真ん中で麻郁が「俺はここにいるぞ」と叫んで事なきを得る。馬岱じゃん。

人の行き交う通りで急に叫び出す麻郁はとても恥ずかしい。しかしヒロイン2人がそんな麻郁の下に走っていく姿はまさに剥き出しの青春。走って、転んで、2人仲良くパンツまで剥き出しになるというヲチもつく。アニメのキャラクターには恥ずかしいことをとことんしてほしいと私は思う。だってアニメだもの。

[ジョイナス(Chimpo_Joinus)が選ぶアニメ・オールタイムベスト10]8位:さらざんまい

8:さらざんまい(2019)

幾原邦彦作品はどれもけっこう好きなのだが、格別好きというわけでもなかった。

面白いと思いつつもどこか心を許し切れないのが、天上ウテナも高倉兄弟も椿輝紅羽も結局最後は消えてしまうからだろう。自己犠牲が美しく尊いものだということは否定しない。ただ、死にたくないから生きてるような私は、命を賭けるほど尊いものよりは、生きることそれ自体に価値があると思わせてくれるようなものが見たい。

そう思っていたので「さらざんまい」は衝撃的だった。私は目を疑ってしまった。この作品では「自己犠牲なんてダセえことすんな」という幾原にとって自虐的なセリフがこだまする。もはや「リンゴは愛の為の死を選んだものへのご褒美」という幾原邦彦は過去のものなり、「生存戦略」は人と人とのまるいつながりの中に幸福を見出すという方向にアップデートされた。ベタな方向性ではあるが、私としてはこちらの「生存戦略」の方が以前のものよりよっぽどか好きだ。

変わらなかった部分もある。イクニらしいメタフォリカルな表現と、お決まりの変身バンク、迸るバカバカしさはこれまで通り。全11話という短さだけがもったいない。2010年代の最後を締めくくるに相応しい快作だった。

イチオシの回:「つながりたいから、さらざんまい」(11話)

感動的な最終回だ。それでいてとてもバカげている。

黒幕のカワウソは「私は概念」と嘯くし、悲劇的な死を遂げて腐女子たちを泣かせたレオとマブも当たり前のように復活する。そして唐突にサッカー選手になった主人公トリオの姿が描き出される。見れば分かる。困惑する内容だ。しかしながら、私としてはとても気持ちいい困惑だった。

橋の上で繰り広げられたのは、つながりを求める主人公たちとつながりを絶ち、欲望を搾取しようとするカワウソの戦いだ。そして「つながりたい」という欲望がカワウソに勝利する。

この作品における欲望は切実なものだ。それでいてバカげたものである。燕太の妄想やカパゾンビにされた変態たちのどうしようもないフェチ願望に呆れなかった視聴者はきっといないだろう。でも最後に勝利したのは欲望だ。バカげた欲望が、歌って踊って尻子玉を抜くというバカげた方法で勝利したのだ。視聴者の困惑は「さらざんまい」がバカらしさを貫いた証なのだ。

バカげた欲望の勝利。バカらしさの貫徹。これも「生存戦略」が自己犠牲からアップデートされた結果の一つだろう。繰り返すが、私はこちらの方が断然好きだ。