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アサヒ芸能で連載中の「ホソジュンのアソコだけの話」の書籍化、ドラマ化、もしくはアニメ化を願うだけのブログです。

アニメ・裏世界ピクニック1話「くねくねハンティング」

上記のリンクから、原作の「くねくねハンティング」が読める。

読めば理解していただけるだろうが、アニメ版は原作をかなり端折っている。

ただ、端折り方に自分は不満はない。様々なものをそぎ落としたことで、作品の輪郭が原作以上に明確に描き出されていたという印象を受けた。

アニメ版「裏世界ピクニック」は冒頭から原作の要素を大胆にカットしている。

原作「くねくねハンティング」の冒頭では裏世界で溺死しかかっている紙越空魚が、自分の置かれた状況を「デス寝湯」とたとえる印象的なシーンがある。自分の置かれた危機的状況を大喜利のように表現しようとするSNS世代的感性の持ち主が、本作の語り手であるということがよく分かるシーンである。

アニメではこの「デス寝湯」の件を省き、「私がいなくなっても誰も気に留めないだろう」という空魚のモノローグから物語を開始する。自分が死んで困るのは大学の事務員と学生支援機構だけという彼女は孤独に沈むオフィーリアである。空魚と視聴者のファーストコンタクトに「デス寝湯」ではなく当該のモノローグが選ばれた意味は非常に大きい。アニメ版「裏世界ピクニック」は空魚の孤独を示すことを優先したのだ。

冒頭で空魚の孤独を強調したことが、鳥子が空魚をくねくね狩りに誘うシーンに繋がっていく。

原作では鳥子が空魚を報酬で釣る場面があるが、アニメではその件がカットされている。金のやりとりを省いたことで、空魚が鳥子に求められたという事実が色濃くなっている。「空魚に来てほしい」と目を伏せながら訴える鳥子の表情が1話の個人的なハイライトだ。孤独な空魚を動かしたのはお金ではない。鳥子の「あなたに来てほしい」という訴えなのである。

かくして鳥子の手により孤独の水底から救い出された空魚は、彼女の求めに応じるように裏世界に再び足を踏み入れた。このようにアニメ版「くねくねハンティング」は原作を巧みに削ることで、孤独な少女が他者から求められるというアウトラインをはっきりと浮かび上がらせている。このアウトラインが本作品においては重要なのだ。

「裏世界ピクニック」は「百合」を描いた作品であると同時に、悪意が私たちの心の弱さにアクセスしてくる姿を描いた作品でもある。本作における怪異はただ不条理なだけの脅威ではなく、人の心の脆弱性を狙って接近してくるおぞましい存在だ。つまり、孤独な少女が他者から求められるというアウトラインは破滅への道筋でもありうる。本作品を「百合」たらしめているものと「ホラー」たらしめているものが、実は同じというのが「裏世界ピクニック」の面白さだ。

映像化の際に、原作のどの箇所を拾うか、どの部分を省くか、という問題はなかなかデリケートである。原作にどこまでも忠実である必要はないが、原作の核心部が台無しになっては元も子もない。好きな原作のアニメ化だけに、期待半分不安半分という心持ちで視聴したが、大胆に肉を削ぎながらも、その本質を傷つけることなく鮮明に浮かび上がらせてくアニメになっていくことが期待できる1話だったと思う。