今週はうさ太郎先生*1の引越祝いにブログを書く。
- 細江純子、おじさん構文、ちいかわ
今週の細江純子のコラムがなかなか興味深い内容だった。仕事で一緒になった人に「シモネタはキャラですか?」と聞かれ、そのことについて考えたというものだ。彼女にとってシモネタは男社会で生きる上での処世術として自然に身に付いたものあり仕事のためにやっていることではない。むしろ地上波でシモネタを自重している自分こそが"キャラ"ではないかと彼女はいう。
ホソジュンウォッチャーの立場から見解を述べると、"キャラ"でやっているようには思えない。ただ細江のツイートに関しては"キャラ"っぽさを感じてしまうときがない、とは言えない。
今宵も『うまんちゅ💓』
— 細江純子 (@junkohosoe) 2022年8月27日
なんと、うまんちゅは20年。
歴史ある〜。
予想はキーンランドC 。
私はD?ものによってはC🤗…カップ…ナンチッテ🫣 pic.twitter.com/aW8h5SMLQS
細江純子のツイートはくだけた文体で絵文字が多い。何かと揶揄される「おじさん構文」の典型である。
おじさんたちは「おじさん構文」を素面で書いているのだろうか?そうではないだろう。そこに「親しまれたい」という打算があり、おじさんは「親しまれる」ために"キャラ"をプロデュースする。「おじさん構文」とはおじさんが自らプロデュースした"キャラ"を降霊する祭壇である。しかしながら"キャラ"のプロデュースは失敗していると言わざるをえない。また、いくらテキスト上で「親しみやすい自分」を演出したところで、おじさんはおじさん。いずれセクハラというボロを出すだろう。
細江に関していえば、「おじさん構文」的な"キャラ"と普段の彼女の間に大きな齟齬がないように思える。しかし彼女が「おじさん構文」でツイートするたびに、構文が孕む作為性を感じてしまう。それは裏返すと、「書き手はある文体を通してに"キャラ"を宿す」という感覚を私が持っているということの証左であろう。私たちは何らかの目的があって、"キャラ"を宿す必要がある。そのために、文体の力を使うのだ。
文体が"キャラ"を宿す、ということを最近一番感じるのが「ちいかわ」のリプ欄。リプ欄全体がそうというではないが、「おじさん構文」のように絵文字で装飾されたリプライが目に付く。見たところ女性が多いようだ。内容は、ちいかわやハチワレの行動を賞讃するものが多く、彼らを"推し"と呼ぶものも少なくない。傍から見ると彼女たちの言葉は仰々しい。「おじさん構文」というよりは「女オタク文体」と言った方が適切だろうか。
私もたまに「ちいかわ」をチェックしている。それなりに面白がってはいるが、特に感想をアウトプットしたいとは思わないし、ましてや公式アカウントにリプを送ろうとは思わない。ただ彼女たちはそうでない。"女オタク"を内に宿して「ちいかわ」の公式アカウントにリプライする‥‥コンテンツを摂取する上でこうする必然性が彼女たちの中にはあるのだろう。
- 今週聴いた曲
Atopos (feat. Kasimyn) / Björk
惑星のかけら / スピッツ
SARASARA / Nyarons
Esquisse / 鬼頭明里
2022年もビョークは魔女のようだった。
鬼頭明里さんの新曲はイントロが「Eyes On Me」のようだった。
*1:うさ太郎には三つの将来が約束されています・一つはブログをようし 二つは更新の機運にそい 三つは大志あってうまくブログを更新しているところです・日本の宝