ジョイナス最後の戦い

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2023年5月1週 —ヌーディストビーチで全裸になることが咎められないように—

今週もうさ太郎先生リスペクト*1でブログを書く。

 

Deputy Ministerとクリアアンバーを買っておけばいいレース。該当するのはカルロベローチェオオバンブルマイ、ショーモン。

この中で展開に利がありそうなのはオオバンブルマイ。鋭さはないが図太く伸びてくる大箱マイラーで、京王杯もアーリントンCも道中はインで足を溜め、ラスト1ハロンで前をしっかりと捉えた。ただ勝ったレースは上手く行きすぎた感は否めず、相手が強化されても同じように差せるかは疑問だ。

前哨戦で上手くいった馬よりは上手くいかなかった馬の方を狙いたい。ということで本命はカルロベローチェファルコンSは道中では引っ掛かり、直線はなかなか進路を見つけられない苦しい競馬だった。白梅賞の勝ち時計は中京1600の時計としてはけっこう優秀。正直なところ2021年シンザン記念のピクシーナイトには及ばないが、今回のメンツでなら前走よりうまく乗れれば十分勝ち目はあるはずだ。

 

  • 今週聴いた音楽

今週は遠出する機会が多かったので、移動中に雑にシャッフル再生できるプレイリストを作ってよく聴いていた。

アニソンというカテゴライズはなかなかすごいものだなと思う。ロックとかジャズとか、普通は音楽的に共通する特徴をもって区分されるのに、アニソンは雑多な曲群が「アニメに使われている」というだけで一括りにされている。人種と職種ぐらい他とは違いがあるのに、音楽のジャンルの一つとして当たり前のように居座っている。

話はがらっと変わるが、私は「輪舞-revolution」が好きで、とくにラスサビ前の間奏がお気に入りだ。奥井雅美和田アキ子ばりに「ハッ」と掛け声をかけるとラテン・フュージョンのようなキーボードソロが始まり、そのままソプラノサックスのソロになる。この間奏を「かっこいい」と思う反面、「古い」——もっとはっきり言ってしまえば——「ダサい」という認識を覚える。しかしながら「古い」「ダサい」という認識は、即時にまるで第三者的な感情であったかのよう霧散し、次のパッセージへの待望へと入れ変わっていく。

アニソンという括りに良さがあるとすれば、それは曲の「古さ」や「ダサさ」を作品に隷属するものとして捉え直す契機を与えてくれるところにあるだろう。「輪舞-revolution」の「古さ」は「少女革命ウテナ」の「前時代的」な世界観、「ダサさ」は一般的な美の規範から逸脱した「耽美性」に連なるものとして。

しかしながら、アニソンの「古さ」「ダサさ」というのはこうした解釈ゲームをしなくても自然に消化しうるものかもしれない。そもそも音楽を「古い」とか「ダサい」と感じることが、盛衰激しいポピュラー音楽史の枠内の話であり、アニソンを聴く場合は話が変わってくる。それは小室哲哉を例にすれば分かりやすいだろう。「小室ファミリー」は一世を風靡したがもはや終わった流行であり、彼の音楽はもはや「時代遅れ」でしかない。ところがこうしたレッテルもアニソンのスタンダードと化した「GET WILD」には関係ない。

アニソンという括りは楽曲をポピュラー音楽史的なパラダイムから免れさせる作用がある。ポピュラー音楽的美的感覚からの解放されたアニソンに「古さ」や「ダサさ」があったとしても、ヌーディストビーチで全裸になることが咎められないように、問題に値しないものとして聴き流されていく。そのようなものとして私たちはアニソンを捉えているのではないのだろうか。*2

*1:敵が鋭気百倍あろうとも・わがブログも朕が直々更新とあらば勇気百倍になるわ!・日本の宝

*2:筆者はこのブログを書く前に加藤典洋のポップス評論を読んでいたので、影響されてこのような内容になりました